@BLUE_PANOPTICON 「芸術と文化の収集について」という題のテキストで、以下のような記述があります。
人類学と近代芸術の歴史学は、収集という行為のなかに、西洋的主体性の一形態と、変化する強力な制度的諸行為のセットを、見てとる必要がある。(博物館・美術館に限らず)コレクションの歴史は、人類学と近代芸術を発明した社会集団がエキゾティックな物、事実、意味をいかにして領有(appropriate)したのかを理解するうえで中心をなす。
「領有」が appropriate の訳語です。 「物、事実、意味をいかにして領有したのか」とあり、「物」は文字通りの収集で、「事実」は民族誌の形成などだとおもいます。
添付のダイヤグラムは、クリフォードの考える西洋社会におけるモノの分類システムですが、「エキゾティックなモノ」を、この分類システムのなかに恣意的な操作によって配置する過程じたいを、「領有」と呼んでいるようにおもいます。
精読できていないので、強い確信があるわけではないのですが…。
ほかの「領有」の用法では、以下のようなものもあります。
機略縦横の北米先住民の集団は、西洋の博物館を領有することさえありうるだろう––また別のヨーロッパ的制度である「部族」(という観念)を我がものとしてきたように。
ここでは、先住民側が植民者のシステムを利用すること(たぶん博物館をジャックすること)を「領有」と呼んでいます。西洋人が書いた民族誌にあらわれた自民俗の記述から伝統を掘り起こすことも「領有」として扱われています。
訳語もそうですが、クリフォードは appropriation を単純な「盗用」とは考えていないとおもいます。
ファッション業界における「文化の盗用」について考える(家田崇) https://fashiontechnews.zozo.com/research/ieda_takashi
バッドノウハウはたしかに面白いのだけれど、一方でバッドノウハウとしての面白さ(あるソフトウェアの仕様がユーザーとのインタラクションで偶発的に生み出すなにか)を音楽に内在的なものと取り違えると、カテゴリーミステイクが起こってしまって、結局どっちの記述も失敗するのでは、みたいな話ですね
http://0xcc.net/misc/bad-knowhow.html
自分自身、バッドノウハウというかいわゆる「奥が深い症候群」にハマってプログラマーやっているみたいなところがあって、バッドノウハウというものにネガティブではなく、ある恣意的な制約があったときにその恣意性が機械と人間と対話の歴史から来ることに妙な感動を覚えてしまう。
音楽的素養がなさすぎて詳しいところ理解できていないんですが、「テクノロジーの制約が生み出すイリュージョンにすぎない」というのがかなり興味深い話だなとおもいました。
20世紀美術におけるプリミディヴィズム展カタログの日本語訳は、MoMA公式がpdfを公開している(大容量注意) https://www.moma.org/documents/moma_catalogue_1907_300133938.pdf?_ga=2.245690116.1060760755.1685279765-1967305709.1685279765
それが、歴史記述の段階になると、歴史記述装置がそうだからなんだろうけど、エスノセントリックになって、「モダニズムによって部族の彫刻は消滅の危機を免れることを越えて、芸術として賞賛されるようになる」みたいなことになる。もちろんここで「モダニズム」というのは西洋の美術のことであって、MoMAの20世紀美術におけるプリミティヴィズムでウィリアム・ルービンは、西洋の文化的な装置が非西洋の諸文化を「救う」みたいな傲慢な語りをぬけぬけとやってしまったわけで、批判がでるのも無理はないとおもう。この手の語りはいまだにいろんなところにありそうな気はする。
https://museum.geidai.ac.jp/exhibit/2023/04/punk.html
人類学を通して見ると、19cから20cにかけて成立した美術史の諸概念もぜんぜん別の見え方をしておもしろい。
シャピロの様式論読んだことあった気がしたが読みなおす必要がありそう。