これは我ながら末期症状だなと思うんだけど、たとえばライブを見に行って、ステージ上で人が楽器を演奏し、それをマイク、ミキサー、アンプを通してスピーカーから出てくる音を、俺は「音源」として認識している。
壇上で人が指を中心とした身体を動かしている行為と、スピーカーが振動して音が発生しているという物理的状態ってのが完全に切り離されていて、「フツーに整った音で聞きたいなあ」って思っちゃう。だから俺はバンドのライブが楽しめないんよね。
カラオケでもうまい人が歌ってるの聞いてもそう思っちゃう。
だから俺のライブ体験ってのは眼の前で行われるアンプラグドの演奏に限られる。
少なくともステージにおける話では、精緻に整えられた音源を流すDJ形式が最も音が良く、音が整っていない生演奏のバンドライブは、録音物よりクオリティの低い音であると感じてしまうんよ。
で、これについて俺、長らく「ライブの体験自体が少ないから」だと考えていたんだけど、どうも生来のサイコパス気質によるものっぽいってことがわかってきている。
要するに「音情報」と「演奏している人の気持ち」が完全に分離した別の現象にしか見えてないってこと。末期症状なのである。
#VivaldiTokyo2023 で質問させてもらった生成 AI についてのテッちゃんの所感、とても彼らしい答えだったな…
生成 AI 技術そのものの可能性と使い方のリスクを分けて考えるっていうのは、ともすると生成 AI を開発したり後押ししてる立場の人からもよく聞く言葉ではあるけど文脈によっては「とはいえもう AI の進化は止められない」っていう話のちょっとした免罪符にしか聞こえない時もあって、
一方で、インターネットの黎明期から Opera を作って技術の標準化やオープンスタンダードにもコミットしてきたテッちゃんの言葉は単なる免罪符じゃなくて、今までの彼の行動や歴史に裏打ちされた誠実な言葉として伝わるものがあったし、技術そのものよりもそれを取り巻く環境とか使い方への懸念をもっているというところがあらためてテッちゃんらしいと思った。
https://www.slam.org/collection/objects/5335/
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3821&status=published
すでにそういう風潮はあるけど「生活に余裕がないのだから、勉強や文化なんぞにうつつを抜かすなんてとんでもない」という世界になってほしくない。その余裕まで「ぜいたく」として「敵」視されたらおしまいですよ。