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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

これは我ながら末期症状だなと思うんだけど、たとえばライブを見に行って、ステージ上で人が楽器を演奏し、それをマイク、ミキサー、アンプを通してスピーカーから出てくる音を、俺は「音源」として認識している。

壇上で人が指を中心とした身体を動かしている行為と、スピーカーが振動して音が発生しているという物理的状態ってのが完全に切り離されていて、「フツーに整った音で聞きたいなあ」って思っちゃう。だから俺はバンドのライブが楽しめないんよね。
カラオケでもうまい人が歌ってるの聞いてもそう思っちゃう。

だから俺のライブ体験ってのは眼の前で行われるアンプラグドの演奏に限られる。
少なくともステージにおける話では、精緻に整えられた音源を流すDJ形式が最も音が良く、音が整っていない生演奏のバンドライブは、録音物よりクオリティの低い音であると感じてしまうんよ。

で、これについて俺、長らく「ライブの体験自体が少ないから」だと考えていたんだけど、どうも生来のサイコパス気質によるものっぽいってことがわかってきている。
要するに「音情報」と「演奏している人の気持ち」が完全に分離した別の現象にしか見えてないってこと。末期症状なのである。

「使う主体」と「使われる道具」という2つの領域に区分してしまって、それらはそれぞれ自律している、という理屈を作るような操作が「道具はそれ自体良いものでも悪いものでもない。使い方次第だ」という言い方に含まれている。「道具それ自体」という観念はめんどくさい。

ああっ重文展終わってる...

銃は良いものでも悪いものでもないとか、核爆弾は良いものでも悪いものでもない、使う側の倫理の問題だっていう、倫理と道具の領域が独立している系の議論は、そういう操作ですよね

で質問させてもらった生成 AI についてのテッちゃんの所感、とても彼らしい答えだったな…

生成 AI 技術そのものの可能性と使い方のリスクを分けて考えるっていうのは、ともすると生成 AI を開発したり後押ししてる立場の人からもよく聞く言葉ではあるけど文脈によっては「とはいえもう AI の進化は止められない」っていう話のちょっとした免罪符にしか聞こえない時もあって、
一方で、インターネットの黎明期から Opera を作って技術の標準化やオープンスタンダードにもコミットしてきたテッちゃんの言葉は単なる免罪符じゃなくて、今までの彼の行動や歴史に裏打ちされた誠実な言葉として伝わるものがあったし、技術そのものよりもそれを取り巻く環境とか使い方への懸念をもっているというところがあらためてテッちゃんらしいと思った。tony_normal

予定だいぶ遅れてしまった...

めちゃくちゃ進撃の巨人感あるよな
https://www.slam.org/collection/objects/5335/

こういう感想になることが、やっぱり自分が考えてみたい領域が、まさにその美的ななにかと道具との関係というか、その中間的な様態とでもいうのか、あるいは美の道具性というのか、そういうものなのかもしれない。

「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」のウィリアム・ルービンによる序論を読んだ。「部族芸術」(この言葉には日本語版監修の吉田憲司氏は警告を促すが)を美的なものとして理解するというルービンの態度は、ああそういう記述が可能なんだなという勉強にはなる。けどやっぱり柳の民藝とおなじで、道具的な特性の分析ではなく美的な鑑賞をしてしまうということにやはり限界を感じる。ルービンは新しいことをやっているつもりだったし、じっさい、美術史に「部族芸術」の分析から得られる語彙を導入することで記述可能性が広がるのは間違いないんだけど、美術は道具ではないという見解も同時に強固にしているかなという印象。

最近マティスの画集ずっと見てるけど、マティスを見てるとピカソでも19世紀の絵画の延長でやっているように見えちゃうんだよな

1900年前後に前衛の政治性って自明なものとして受け取られていたと思うんだけど、マティスのような人の手によって政治と芸術が完全に分離されていったのはなぜなのか。マティス自身がしばらくの間はブルジョワ的だとしてフランス本国で受け入れられなかったのは、鑑賞者がわに反ブルジョワ的なものとしての芸術という観念があったからで、そういう反ブルジョワとしての芸術がどれだけ真剣に政治性があったかは別としても、当時は芸術のなかに政治的メッセージを込めることは自然と受け入れられたものだったと思う。マティスには皆無だけど。

すごくどうでもいいことなんですが、ウマ娘ってなんで前傾姿勢で走るのかがずっとわかっていない。短距離長距離かかわらず人体的なものが走る動作をするときに前傾姿勢になるの最初くらいなのでは。

これは買わなければ。いつ読むんだ。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3821&status=published

辻ちゃんの展示行かねば

川辺や公園で文化ピクニックしましょう。水筒の茶を飲み、本を読み、スケッチブックに落書きしたり、誰かが朗読したりするやつ。

すでにそういう風潮はあるけど「生活に余裕がないのだから、勉強や文化なんぞにうつつを抜かすなんてとんでもない」という世界になってほしくない。その余裕まで「ぜいたく」として「敵」視されたらおしまいですよ。

「政治から解放された人文書の世界をつくりたい」っていうのを見て、昨日も別な所でそんな話をしていたのでちょっと考えたけど、自分にとっては「芸術の政治性」なんていうものが重要なわけではなくて、単にリアリティの問題なんだなとおもった。政治と厳密に区分しうるものとしての芸術、というところにすでにリアリティを感じられなくなった。

このテキスト、かなり問題含みとはいえ勉強になる。

視覚中心の芸術から概念中心の芸術へなんて凡庸すぎて、たぶんなにも当たっていないとおもう。

「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」のウィリアム・ルービンの論考読んでいるけど、1906-1907年に芸術家たちが「部族芸術」を突如として受け入れるようになったのはなぜか、という問いを立てて、「最も重要な理由は、最前衛にあった芸術の性格が視覚的認知に根差した様式から、概念化に基づいた様式への根本的に変換したことと関係している」という記述は、本論と無関係に残念だな...。

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