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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

vanitas 008「ウェールズ・ボナーという名のファッション・ハウス」おもしろかったです。
ファッション批評まったく知らなかったけど、ほかもおもしろそうな論考がたくさんある。

手前味噌だからいうか迷ってたけど、天重さんのブログ派生で起きた反応ふくめファッション業界もデザイナーブランド中心に似たようなところがあるなと思っていて、そのあたりを見やりつつ書いたのが『vanitas』008に寄稿したウェールズ・ボナー論だったりします。

Fediverse でも知らん人に揶揄されることはぜんぜんあるんだろうけど、twitter に比べるとほぼ気にならないんだよな。検索性能が悪いっていうのもあると思うけど。

タバコ部屋とか飲み屋とかで自分不在で陰口叩かれることを気にしてても仕方ないが、たぶんそれと似た話で、Fediverse は目の前に見えている関係性以外あまり見えない。twitter はまじで関係ないやつが見えすぎてしまって、居酒屋で飲んだくれてる声が響きまくっている感じなのかもしれない。

世界美術大全集全28巻、揃えようか迷うけど、かさばるんだよな。

書いてて自分でも思っていた

悪意ない揶揄ってあるっけ……となった (これは皮肉とか揶揄ではないです)

ロンパできる確信があっても、なんでそんな無駄なことに時間を割かなきゃいけないんだとおもって反論なんてしない。そうすると最初から沈黙していたほうが楽。

twitter、悪意ある揶揄はほんとにむかつくから twitter やらないほうがいい

めっちゃおもしろそうなんだけど、今買っても読む時間が...
http://www.ibunsha.co.jp/new-titles/978-4753103751/

『「プリミティヴィスム」と「プリミティヴィズム」––文化の境界をめぐるダイナミズム』(大久保恭子)を読んでいる。勉強になる。
https://amzn.asia/d/0qHNXS4

けっきょく、自分がみつめなおしたいとおもっているのは(美術の言説に閉ざされたモダニズムではなく)モダニズムそのもので、近代化の成立過程において、植民地主義やジェンダーの固定化というのはどれだけ必然的、もしくは偶然的な事象だろうか。それらを「西洋的」と言ってしまうと、戦前からあまり進歩がないように見えてしまう(京都学派や近代の超克で展開されていた理屈なので)。

BT たとえば、以下のような記述があって、

その前提には「創造主」としての画家の絶対的な力と、近代社会のジェンダー構造に支えられた男性画家と女性モデルの間の見る者と見られる者の間に展開される眼差しの権力関係を前提に制度化された、近代西欧絵画の構造が存在する。画家はこの構造のなかで、想定された白人男性を中心としたブルジョワ層の知的エリートからなる受容者の眼差しと重なり合う形で、対象に自由で独自の決定的なフォルムを与える「創造」としての制作を通して自らを画家としてアイデンティファイしてゆくことになる。 (「過程にある絵画」天野知香)

これをもって「西洋絵画の白人男性中心主義」っていうことになってしまうと、近代西欧絵画の特性に西洋中心主義があることになってしまい、より抽象化された意味でのモダニズムが見えづらくなってしまう。

本来の作業としては、なにが近代化に伴う必然的なものであり偶然的なものであるかを区別する作業が必要なはずであるが、「西洋白人中心主義」という概念は「モダニズムの隠れた前提」とでもいうものになってしまって、近代化というものが(これは使いたくない言葉だが)「名誉白人化」とでもいうものになってしまう。

「西洋絵画の白人男性中心主義」という概念は事態を正しく捉える概念ではなくて、マティスの顧客はロシアのシチューキンやモロゾフ、日本の松方幸次郎や大原孫三郎とかいたわけだから、「想定された白人男性を中心としたブルジョワ層の知的エリートからなる受容者の眼差し」という想定は端的に間違っている。グローバル経済環境の発達のなかで国際スターとして成立していた彼が西洋中心主義だったわけではないし、日本の美術業界の制度的発達を見てみたところで西洋中心主義で発達しているわけではぜんぜんない。「西欧中心主義」とか「白人男性中心主義」とかは、ふつうに制度分析を間違った方向にむけてしまう不要な装置に見えてしまう。本来分析したいモダニズムの特性を間違ってしまう。

これは20年前のマティス展のカタログの記述だけど、現在ではこんなに解像度が荒い記述になっているとはおもわない。

天重さんの指摘で「日本では植民地主義への批判としてではなく、白人中心主義への批判として、ロジックをすり替えられる」というのがあったけど、私が、作品を「白人酋長もの」と纏めて済ますネット慣習に苛立っていたのは同じような視点からだったなあ、と思い出した。

植民地主義の罪ではなく、アメリカ人を腐す身振りに逸れてしまい、日本にある植民地主義的欲望をあっという間に消す手口になる。

https://twitter.com/ttt_cellule/status/1254057866899492865?s=46&t=5mSltbi1UVoy9J3RPXDKUQ

アラン・ケイ、もうおじいちゃんだなぁ
https://www.techno-edge.net/article/2023/05/08/1249.html

@gon_gitsune ヴァリエーションはわかりませんが、メソッドはプログラミングの用語のやつかもしれないですね(本を未読なので指示対象の認識があっているかわかりませんが)

じゃあといって、19世紀の画家たちは「再現(representation)」をしていたのかというと、ぜんぜんそんなことはない。セザンヌもゴッホもロダンもそうだけど、自然に内在する生成力を発見し、その生成力から絵画や彫刻を生みだそうとしていた。

マティスがやっているのはまったくそういうことではない。というかマティス解釈を通じて、19世紀の絵画は representation だという了解ができあがった(実際にはキュビスムの解釈を通じてだろうけど、キュビスムに内在していた諸問題はほとんど初期のマティスに見られるとおもう)。19世紀芸術の「自然」概念が了解しづらいのは、20世紀芸術の(漠然とした)理解を通じて「19世紀画家たちは再現representationしていた」という了解があるからだとおもう。絵画がなにかを represent するという概念は20世紀にあらわれた概念だろう。

これも似たような性格がある...。
自然と二次的なシステムとしての絵画というものがあるとしたとき、それが19世紀的な絵画観を決定していたけど、マティスのやっていたことは絵画は完全に自然から独立した存在者だということだ。19世紀の絵画は、セザンヌでもゴッホでも、「実世界のモデル化」を志向していたとおもう。彼らの語る「自然」はいまの自分にはスッと入ってこない概念なのだが...。この入ってこなさには、やはり決定的な切断がある。
https://twitter.com/sumim/status/1655281322167013377

マティスという人、19世紀的な「自然」という概念から決定的な離脱を果たした人で、彼なしに20世紀芸術がありえないくらいだとおもうけど、それがどのようにして起こったかがわからない。当時のあり方からして、あまりに急進的すぎる。
「どのようにして」と問うこともおかしいのかもしれないけど...。

どんな視点からの対象の構成も単純化を伴うわけだから、キュレーターがやるべきことは、単純化を含む視点を複数提示することになるのだろう。そうしてこそ、対象の掬いきれなさが複雑性として立ち現れることになる。一つの視点から見たときと別の視点から見たときに、往々にしてズレや矛盾をはらむものなのだから、そこにこそ鑑賞者がさらなる探求を求める余地が生まれる。

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