pleroma.tenjuu.net

tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

陰翳礼讃のときに春琴抄とかの盲目について書いてて、視覚の否定と主体の否定が結びついている、みたいな話聞いてる。

https://hon-hikidashi.jp/event/4695/
日本の美を読む、来てる

ニューアートヒストリーはもう当然前提とされていると気軽に言えてしまう人はともかく、20年前のマティス展のカタログを見ると、まさにニューアートヒストリーを踏まえつつマティス展を実施するという困難に、田中さんや天野さんが四苦八苦している様が伺える。彼らの試みは結局、フォーマリズムとニューアートヒストリーの同時輸入とでも言えるもので、性格上かなり難解な仕事にならざるを得ない。それはうまくいっているとも失敗しているともいえるが、日本特有の問題になっている。これはかなり奇妙な混合物だとおもう。「当然前提として織り込まれている」ような前提は、いまだに存在していない。

あ、いろいろ言っているけど、ZINEおかけんは買いにいきます!
https://c.bunfree.net/c/tokyo36/h2f/%E3%81%8D/71

きのう、某氏の話を聞いて思ったけど、じつのところ現在の日本のパースペクティブはナショナリズムかグローバリズムのどちらかでしかなくなっている。後者について本人はアナーキズムだと感じているだろうが実際にはグローバリズムで、グローバリズムもナショナリズムもともに歴史理解を歪める。

「日本による外国の支配」という単純な事実を忘れるから、「フランスによる外国の支配」というものが歴史を見るパースペクティブから外れる。それで、帝国主義と芸術といえば、国内芸術家が、国家による支配・強制を受けていたという謎のパースペクティブが生産される。これは一時期のアヴァンギャルドとアナーキズムの近さだけから歴史を遡って照射する欺瞞に過ぎないが、まさにこの国家対個人の支配関係しか見えないのが、日本の戦争にたいする被害者意識に由来するものだろう。それで、自身は対象としての芸術家を理解しているつもりになっているから、対象を構成する自身のパースペクティブは不可視になる。

まじでがっかりしている。

聞いてるけど、やっぱりわかってないな...。

おもいっきりおかけんにディスられてんな。

「1912年から13年にかけて2度モロッコに滞在した結果、(略)旅が重要であることを実感した」とか、なんの注釈もないんよね。マティス展のカタログ。いや、いままでモダンアートの記述で、アーティストが旅に行って変わったとかの記述があるときに、その旅先は植民地だけどねって書いてあるのを見たことがない気がするけど...。
それが悪いとは言えないかもしれないけど、やっぱりいろいろ思うわけです。

けっきょくTwitterって噂話でしかないから、見えないところで噂話がおこなわれている(見えていないことが見えている)というのは、わりと気になる

Twitterのサブスクは動線というか、けっこううまいな

フォーマリズムの考古学が必要なのか

左翼方面からこんなんでてるのやばいな...
いまのウクライナを大日本帝国に重ねるのはさすがに意味がわからない。当時の日本と似ているのはどこからどうみてもロシアのほうだよ。敗戦の事実は覚えていても侵略の事実は忘れる。
https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2023/04/29/news-135/

re: マティス展の記事について改めて
マティスは1931年の時点ですでに国際化していたのか。1931年にMoMAで回顧展がおこなわれている。
https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E5%9B%9E%E9%A1%A7%E5%B1%95

でもこっち(fediverse)のほうがかなり安心感あって、わりかしテキトーな放言できる感じはやっぱりかなりある。

x SNSでは議論ができない
o SNSでは安易に人を揶揄するやつらがたくさんいるから議論なんてしたくない

自分、ポストコロニアルの問題ぜんぜん詳しくないのに触れてるの意味がわからないな。

マティス展の記事について改めて
自分の記事を読みなおしておもったけど、マティスの政治的な表象(ポリティカルなこと)について書いているんじゃなくて、具体的なポリティクスについて書いているんだな。だから、結局フランスの美術行政とか日本のブロックバスター展とかの結託のなかであるイデオロギーが再生産されている、ということがやはり問題になる。そのイデオロギーが超歴史主義的で、戦争とか知らんみたいな顔をして、マティスも戦争は悲しんだ、以上。みたいなことをやっている。

これは、結局フランスや日本の文化政策や教育だったりから生成する政治過程で、この政治過程の分析が必要なはずだっていうのがまあ引きだされる結論なはずで、つまりじつは芸術なんてなんの関係もない。ようするに芸術はいかに総力戦体制において存在してきたかということであるし、現在においても実は総力戦体制の麾下にある。こういうのに芸術家がいやな顔するのは仕方ない。芸術のはなしなんて一切していなくてポリティクスの話してるんだから。

自分の記事は、マティスの政治的性格を分析することでよりマティスについての理解が深まる、とかが結局どうでもよくて、そうではなくて、マティスを分析することで植民地主義や実際のポリティクスについての分析ができるはずだ、ということに関心がある、というようなものになっている。ここで分析対象となるマティスという存在は、すでに過去にあった実在の芸術家とか現に存在する芸術作品群とかではなくて、「マティスとして知られているもの」「マティスとして我々が考えているもの」の総体を指す。この「マティスとして知られているものの総体」は、例えば、美術史学上での研究、美術館での展示、批評や一般記事や宣伝などなどによって形成され、歴史的なものである。つまり、フーコー的な考古学が可能な領域である。この考古学的な作業によって得られるであろうものは、マティスのナショナリスティックな性格が排除されてきたという経緯を追うことで、現代日本の表象システムがどのように機能するか、ということが分析可能になるであろう。なんか書き方までフーコーっぽくなってきた気がするのでこのへんでやめるし自分はこんな考古学はたぶんめんどくさすぎてしない。

そういえば芸術における秩序の問題、創発っていう観点から考えたことあまりないな
https://scrapbox.io/tenjuu99/%E5%89%B5%E7%99%BA

»