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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

テロを物語化するなみたいなのをみたけど、忠臣蔵とかどうすんのさ

市境に住んでると選挙カーがどっちの市の候補者かわからない

科学の操作主義ってUXとかに流れ込んできてるんで(まあUXの提唱者ノーマンが認知科学だからそうなる)、それほんといいの?って思ってる

テキストの鮮度、視覚詩のデザイン、文字列のエンジニアリング(笠井康平)
https://note.com/inunosenakaza/n/n926d7d6de572

「私小説論」小林秀雄の抜粋
「何故ジャズのレコードに比べて比べものにならぬほど古典音楽のレコードが売れるのか。西洋音楽を真に理解しているいないは問題ではない。ただ僕らの耳が後者により多くの純粋な音を聞きわけているという簡単な事実によるのだ。過去に成熟した文化をいくつも持ち、長い歴史を引き摺った民族の眼や耳は不思議なものだと思う。僕はこの眼や耳を疑う事が出来ない。」
こんなの笑うんだが。くそ真面目に書いているっぽいのがけっこういかれてるな。

「近代の超克」は思っていたよりずっと多声的な座談会で、多声的であることを目標にしていたのであったのだからそれはそれで成功している。竹内好は失敗していると考えているけど、そこから戦争への抵抗の思想が発生しなかったからだ、というのは理解できなくはないけど、それでいいんだろうか。

読書行為はどれくらい文献学的な作業なのか書いている人っているのかな。与えられた書物から原テキスト(ここでは原稿がそれになる)を取り出す作業としての読書、みたいな。原テキスト/原稿と書物のあいだに距離があって、それを忘れたり思いだしたりしながら読んでいる。

エディトリアルデザインが気になってきた。とくに、エディトリアルデザインの発達によって、原稿用紙と書物にどれだけの距離が生まれたのかという点。原稿用紙と書物の距離ができればできるほど、テキストと書物に乖離が生まれ、著者の執筆経験と読者の読書経験のあいだに乖離がうまれるのではないか。

「音を聴きにいく」のもテクストの自立の流れと同じものに見える。環境を捨象した音/音楽の存在ってテクストのように抽象的な場を必要とするように見える。
https://twitter.com/tenjuu99/status/1647298389628030976

「音を聴きに来てる」言説って、結局、「身体の忘却」という事態に結びついている。しかし、忘れることなんてほんとはできないので、「身体の忘却」を可能にする思想的かつ実践的な立場があって、それを身をもって会場でパフォーマンスすることで、楽音以外の要素を含みこんだ形で音楽文化を作る立場に対抗する言説を作っているに過ぎない。それはアーティストと他の観客だけじゃなくて、音楽文化を作ってる楽音以外の無数の要素を無視しているので有害だと思うが、「音楽は聴く(だけの)ものだ」という建前がある以上、可能なオプションの一つになっているようにも見える。

やっぱり昭和初期って近代化するぞって勢いに対して極端に反動的なものがでてきた時期に見えるなぁ。柳宗悦も発想としてはアレグザンダーにかなり近いと思うけど、昭和にはじめる民藝運動などはやはり反近代というか中世的な組織に戻ろうとしているものだと思われる。文明開化以来急速に近代化を進めてきて、一挙にその反動がでてしまって近代化のモメンタムそのものを失ってしまった。そのためには歴史の進歩主義みたいな観念を無効化しなければならない。そういうのが昭和初期に一挙に起きる。っていう感じか。

コンピュータ上のテキストになると、改行はディスプレイの見た目上の改行と改行コードによる改行の二重の意味をもつことになる。書き手がコントロールできるのは後者のみで、前者をコントロールする手段はない。

詩における「連」は、テキストが掲載される媒体を変えても構造が変化しないけど、改行はどうやってもコントロールできない(一行あたりの文字数は本によって違う)

最近考えていたこととの接点での感想
https://twitter.com/tenjuu99/status/1647275740591951873

ハンス・ネイムスの撮影したジャクソン・ポロック
https://www.youtube.com/watch?v=atu4uVT7bV8

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