例のWeb3本もそうだけど「間違っていることが書かれている」と指摘されている本にもそれ相応の価値があると思うので、発禁とか返金とかはやらなくていいんじゃないかと思うんだけどなぁ。
何がどう、なぜ間違っているのかなぜそれが書かれたのかも歴史の一つとして価値があるのでは?という意味で。
>BT
仕方なく維新に投票するような人たちの受け皿もつくれずに、ブーだけ垂れてたって、次の選挙で次がないでしょ。いくら負けても自分が「正しい」ならそれでいいっていう未熟な市民には民主主義は向いてないんじゃない?
ていうかロマン主義も近代的な運動なんだけど、それじたいが近代化に対する反動としてありつつ民族的な意識を形成することでunitedな国民になるみたいなめんどくささがある。そういうのひっくるめて近代化過程になっている。
近代の超克、亀井勝一郎の論考を仔細に検討してみると、ほんとうに「近代以前」なんだなってなる。下村寅太郎が座談会中でも論考でもかなり的確に批判している。
あと、気になるのはこれはほとんどクレメント・グリーンバーグじゃん、とかテクスト論じゃんみたいな概念の萌芽はありつつ、それが全く評価できていない、というのがなぜなんだろう。魂こそが重要で芸術はそれをやってるんだみたいな前近代的な概念になってしまう。
グリーンバーグなんかはマルクス主義の批判的な検討の果にモダニズム美学を取りだしてみせたけど、日本の当時の批評は、マルクス主義を批判しても、どうしてもロマン主義的な美意識・芸術観にとどまっている。それはなぜなんだろう。
あと、気になるのはこれはほとんどクレメント・グリーンバーグじゃん、とかテクスト論じゃんみたいな概念の萌芽はありつつ、それが全く評価できていない、というのがなぜなんだろう。魂こそが重要で芸術はそれをやってるんだみたいな前近代的な概念になってしまう。
グリーンバーグなんかはマルクス主義の批判的な検討の果にモダニズム美学を取りだしてみせたけど、日本の当時の批評は、マルクス主義を批判しても、どうしてもロマン主義的な美意識・芸術観にとどまっている。それはなぜなんだろう。
柳宗悦についての論考が二本あったので読んだ。
https://www.artresearchonline.com/issue-14
https://www.artresearchonline.com/issue-14
「世界史的立場と日本」は京都学派の座談会で、
(西谷)今度の戦争の非常に違う点は、それが国民国家としての戦争であると同時に、他方で全く新しい積極的な動機を含んでいる点にあるといえる。つまり自分一国の存亡だけでなくて、その存亡が、共栄圏を建設するとか世界に新しい秩序を建てるとかいうことに結びついている。
とか
(西谷)今迄の支那に対する行動が、外観的には或る程度やはり帝国主義的に誤り見られる外形で動いていた。政策的にもそういう風に見られる形をとっていたかも知れないが…。
(鈴木)つまり不透明さがあったんですね。
(西谷)一種の不透明があったと思う。
とか、やばさが溢れている。
今次の戦争は世界史を画期し従来の西洋中心帝国主義にたいして世界新秩序を構築するものなので、日本は帝国主義じゃない、倫理的な動機にもとづいて戦争やっていると哲学者たちがクソ真面目にやっている。ぜひ文庫本でだしてほしい。
これはおもしろそうだけど、いまはまだ読めそうな気がしないな...。時枝あたりから入りたい。
https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1170-0.htm
https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1170-0.htm
「「国語」は死して「日本語」は生まれたか」はかなりおもしろかった。
この論考は、「国語」と「日本語」の概念差はなにかということだが、そもそも「国語」というのは明治以降に国家の統一言語として生みだされた概念だけど、それが侵略戦争のなかで外国人に日本語教育をする必要がでてきた。それで「国語」という教育装置を見直さざるをえなくなってきて、発明された概念が「日本語」というもので、対内政策(国内の日本語教育、ナショナリズムと一体化した日本文学教育やらを含む「国語」)と対外政策(植民地にたいする言語輸出政策、外国人の日本語学習)を分割するものが「国語」と「日本語」の差異だ、という話。
この論点、現代においては「論理国語」という概念の発明によって、従来の「国語」教育をスポイルしようとしているとおもうのだが、従来の国語教育が支えているのは「日本文学」というものの存在そのもので、そもそも日本文学という概念は教育という制度によって維持されているとおもう。その視点からすると「論理国語」というのはかなりアンチナショナリズム的な日本語教育で、当時侵略国に対して日本語を輸出しようとした教育体系に近づくのではないか、という気がする。
この論考は、「国語」と「日本語」の概念差はなにかということだが、そもそも「国語」というのは明治以降に国家の統一言語として生みだされた概念だけど、それが侵略戦争のなかで外国人に日本語教育をする必要がでてきた。それで「国語」という教育装置を見直さざるをえなくなってきて、発明された概念が「日本語」というもので、対内政策(国内の日本語教育、ナショナリズムと一体化した日本文学教育やらを含む「国語」)と対外政策(植民地にたいする言語輸出政策、外国人の日本語学習)を分割するものが「国語」と「日本語」の差異だ、という話。
この論点、現代においては「論理国語」という概念の発明によって、従来の「国語」教育をスポイルしようとしているとおもうのだが、従来の国語教育が支えているのは「日本文学」というものの存在そのもので、そもそも日本文学という概念は教育という制度によって維持されているとおもう。その視点からすると「論理国語」というのはかなりアンチナショナリズム的な日本語教育で、当時侵略国に対して日本語を輸出しようとした教育体系に近づくのではないか、という気がする。
マルクス主義的な資本主義観だとやっぱり消費についてあまり分析できないんですかね。労組とかもっとちゃんとしたほうがいいのはそうなんだけど(しかしこっち方面はいまの日本で期待できるんだろうか...)、それだけだと、ものごとの半面しか見えていない感じが拭えない。