pleroma.tenjuu.net

tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

Notionのほうが機能が豊富なので差異が無視できるなら単純化していいなら上位互換になるはずで、上位互換にならないと感じる場合の理由を知りたい(考えてる

本棚を変えて、どの本がどのへんにあるかよくわからなくなってしまった...

フォントサイズがあまりに違って、引用かなんかかな?と認知するけど、ふつうの文が続いている

文庫本を読んでいて、ページ内で半分越えたあたりから急にフォントサイズが小さくなり始めて困惑している

日本では最終戦争論(石原莞爾)が唱えられたけど、これは国際問題の解決に戦争しかなかったから(国連のような連合型の仕組みが機能しなかったからと思う)、世界統一政府が樹立されるまで戦争が繰り返されるという考えだが、分散的なシステムの採用を諦めた結果でもある。

ファシズムについて興味がでてきているんだけど、ファシズムの登場の背景には分散型の意思決定機構が正常に機能するかどうかが問われているように思われ、日本の場合でもいくつかの集団の意思を代表する代議士制ができて、しかしそれがほぼ財閥の走狗に見えるようになったときにファシズムが勃興しているように思われる。近代国家は分散型の意思決定機構として設計されていたが、それが機能不全に陥るときにファシズムのような独裁に近い意思決定機構が発達する。戦前の国際連盟の失敗も、国家どうしの寄り合いにおける分散的な意思決定機構の破綻なんだと考えてもよさそう。

中村一美の絵を見たのはたぶん10年くらい前の展示なんだけど、見たことのないような絵で、不快な衝撃力をもっていた。おもいおこしてみると、さまざまな物語に回収可能なあれこれの美術作品に対して、そういう物語に回収されることを拒絶するような強さが頭に残っていて、それがずっとひっかかっていた。

作家自身がこのようなことを言っていて、ああ、やっぱりそうかとなった。

このような時、《破房》は次期の《破庵》よりいっそう空間的な激動と変異が強調されているかに見える。それらは、当初人々の眼に不快感や拒絶感をもたらした…。絵画特有の優雅さもなく精神的な昂揚もなく…。ただそこには、崩壊する建築のイメージ、壊乱する構造物のねじれた不統一な空間があっただけだろう。

そして、もうひとつそこには、ある種の既存の絵画的クオリティーへの反抗もあったろう。このような混乱の時代、このような不安定なシステムの増大する時代に、既存の絵画的クオリティーは廃棄されるべきであると。

こうして私は、人々がある意味で眉をひそめるような反クオリティーの絵画を実験的に制作した。これらの絵画は、まだその当初の不快感を保っているのかも知れず、あるいは、あれから六〜七年を経て、人々の認知の対象へと進展して来ているのか、私には良く理解できない。

中村一美「透過する光」、これはなかなか読みがいのあるテキストだな

素朴な疑問ですが、現状すでにテキスト以外の最新文化がun-googlableになっているわけで、テキスト検索してアーカイヴがヒットする環境はあとどれくらいもつのでしょうか?

ひさしぶりに電車のったけど誰もマスク外してない

テキストに残らない、アーカイブに残らないネット活動問題。現代の柳田國男とか柳宗悦が求められる。

@mamemomonga 「マッチョ売りの少女」という物語は、原作では存在していません。しかし、「マッチ売りの少女」という童話は存在します。ストーリーは、貧しい少女がマッチを売ったり、思い出の中で過ごす話です。そのため、「マッチョ売りの少女」という物語は、推測によるストーリーとなります。

仮に「マッチョ売りの少女」が存在したとしたら、恐らく売るのはマッチョ(筋肉隆々)な男性たちであると思われます。そして、アドンとサムソンは二人とも家計を支えるために、マッチョな身体を生かしてマッチョを売っているのかもしれません。このように、物語の設定には、身体能力を生かして仕事をしている人々の努力や勇気、そして家計を支えるための思いが表現され、感動的な話になることでしょう。

部屋が寒いからってその格好ででると暑い

これ、たぶん当時のATGのリーダーはドナルド・ノーマンで、ジョブズの考えとの対立を読みとるべき(ノーマンははしごを外された)だとおもうんだけど、ノーマン的な方針がもともとあったからよいUIだったんだとか、ATGがまだ残っていたらよりよくなっていたはずだとか、こういうのを具体的な根拠もなしに妄想たれながすだけだからHCD信用してない。
https://u-site.jp/lecture/hcd-activities-not-taking-root

中村一美が気になって調べたいが、カタログ買ってないんだなぁ...。やっぱりいざというときのためにカタログ買うべき。

これとても今っぽいなとおもったけど、いつの記述だろう(週刊読書人1061号とあるけどバックナンバーの検索が困難)。

松本健一氏は(略)「日本的ファシズム形態」が成立したのは「ミイラとりがミイラになったのではなく、移入ファシズムを否定的媒介にしながら」自己形成をとげたものである経緯を顧みつつ、氏が「いまファシズムの危機を喋々したり、軍国主義の兆候を叫んだりしている手合いの多くは、一朝ことあればそのままの位相で、ファシズムの担い手になり」かねない事情を剔抉され、「それは本人たちによって当面ファシズムと呼ばれることはないだろう。それは新しい何かとして登場するだろう。(略)いえることは、その新しい何かはファシズムを否定するかたちで歴史の舞台に登場してくるだろう、ということだ。このとき、現在唱えられているファシズム否定論は、ほとんど役に立たないにちがいない。むしろこれは、これらファシズム否定論の多くをじぶんの見方にひきいれつつ登場してくるはずである」

まあ、西洋化を「進歩」とするような歴史意識があり、そのなかでも資本主義から共産主義へは直線的な歴史発展となると語られていたわけだから、西洋の歴史そのものを経験してきたわけではない日本人が、この歴史観に違和感をいだくのはそれはそう。

廣松渉による「近代の超克」論、いまのところ京都学派とくに高山岩男の「世界史の哲学」の分析だが、当時の知識人にとって「歴史」という観念がひどく重要なのはよくわかった。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AU6rtHIL8hTDRMQgxU

「近代の超克」がおもしろかったので「〈近代の超克〉論」読む
廣松渉の「〈近代の超克〉論」

»