中村一美の絵を見たのはたぶん10年くらい前の展示なんだけど、見たことのないような絵で、不快な衝撃力をもっていた。おもいおこしてみると、さまざまな物語に回収可能なあれこれの美術作品に対して、そういう物語に回収されることを拒絶するような強さが頭に残っていて、それがずっとひっかかっていた。
作家自身がこのようなことを言っていて、ああ、やっぱりそうかとなった。
このような時、《破房》は次期の《破庵》よりいっそう空間的な激動と変異が強調されているかに見える。それらは、当初人々の眼に不快感や拒絶感をもたらした…。絵画特有の優雅さもなく精神的な昂揚もなく…。ただそこには、崩壊する建築のイメージ、壊乱する構造物のねじれた不統一な空間があっただけだろう。
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そして、もうひとつそこには、ある種の既存の絵画的クオリティーへの反抗もあったろう。このような混乱の時代、このような不安定なシステムの増大する時代に、既存の絵画的クオリティーは廃棄されるべきであると。
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こうして私は、人々がある意味で眉をひそめるような反クオリティーの絵画を実験的に制作した。これらの絵画は、まだその当初の不快感を保っているのかも知れず、あるいは、あれから六〜七年を経て、人々の認知の対象へと進展して来ているのか、私には良く理解できない。
@mamemomonga 「マッチョ売りの少女」という物語は、原作では存在していません。しかし、「マッチ売りの少女」という童話は存在します。ストーリーは、貧しい少女がマッチを売ったり、思い出の中で過ごす話です。そのため、「マッチョ売りの少女」という物語は、推測によるストーリーとなります。
仮に「マッチョ売りの少女」が存在したとしたら、恐らく売るのはマッチョ(筋肉隆々)な男性たちであると思われます。そして、アドンとサムソンは二人とも家計を支えるために、マッチョな身体を生かしてマッチョを売っているのかもしれません。このように、物語の設定には、身体能力を生かして仕事をしている人々の努力や勇気、そして家計を支えるための思いが表現され、感動的な話になることでしょう。
https://u-site.jp/lecture/hcd-activities-not-taking-root
これとても今っぽいなとおもったけど、いつの記述だろう(週刊読書人1061号とあるけどバックナンバーの検索が困難)。
松本健一氏は(略)「日本的ファシズム形態」が成立したのは「ミイラとりがミイラになったのではなく、移入ファシズムを否定的媒介にしながら」自己形成をとげたものである経緯を顧みつつ、氏が「いまファシズムの危機を喋々したり、軍国主義の兆候を叫んだりしている手合いの多くは、一朝ことあればそのままの位相で、ファシズムの担い手になり」かねない事情を剔抉され、「それは本人たちによって当面ファシズムと呼ばれることはないだろう。それは新しい何かとして登場するだろう。(略)いえることは、その新しい何かはファシズムを否定するかたちで歴史の舞台に登場してくるだろう、ということだ。このとき、現在唱えられているファシズム否定論は、ほとんど役に立たないにちがいない。むしろこれは、これらファシズム否定論の多くをじぶんの見方にひきいれつつ登場してくるはずである」
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AU6rtHIL8hTDRMQgxU