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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

分解すると壊れちゃうものはあるよなぁ。生命はその典型だけど。

「分解しないでください」というシールとして精神に神聖性を貼り付けている

WBCの大谷vsトラウトみたいなマッチアップ、日本では「漫画かよ」っていう反応だったけど、アメリカでは「これは映画だ」みたいな反応で、まあそれはそうだよなとおもいつつ、似たような反応だけどけっこうイメージするニュアンスは違うんだろうなーとかふつうのことをおもった。

テッちゃんとブレンダンのやりとりざっくり経緯

流れとしては

1. テッちゃんがブラウザーのプライバシー意識調査的な内容のアンケートツイート
2. アンケート集計完了後、おそらく Brave 推しと思われるアカウントが「ほほう、ところで下記のサイトの結果についてどう? https://privacytests.org 」とリプライ
3. テッちゃんが「そのサイトは実質 Brave のスタッフが第三者を装って作ってるサイトだから。ウゲッ」と返信
4. それに横からブレンダンが出てきて「"装ってる"って言った?それは当人が Mozilla にいた時に始めたサイトで Brave は関係ないよ」と返信
5. テッちゃんが「ワイはうちの社員に第三者のような顔して比較サイトやらせたことは一度もないよ、キミはそれで良いのかもしれないけど。ましてやそれをマーケティングに使うなんでもってのほか」←イマココ

という感じ…

「中国語の部屋」がイメージしているものは、哲学的ゾンビなわけだろうし。

あー、クオリアと哲学的ゾンビは言われてみるとそうか。というか、この概念こそ、まさにAI研究の流れから活力を与えられている概念だとおもう。たぶん、カントの時代に「クオリアはあるか」とか哲学的ゾンビという概念をもちだしても、誰もその問いの意味を理解できないとおもう。

知性の定義に主観的な経験がどうあるかを含めるならクオリアと哲学的ゾンビに関する議論とほぼ同じ流れになると思うのでそちらを参照すれば良いと思う

スムーズに仕事をするためのテクニックが、対AIでも必要になったケース。

“chatpgptが書いたコードに修正指示をだすとき、「間違ってるから直せ」とか言うだけだと自信なくして他の部分も変えてしまうので、「ありがとう。ほとんど完璧です。しかし一点だけ」みたいな前置きが必要。何これ?” by tomo3141592653@twitter

https://twitter.com/tomo3141592653/status/1638040415059447808?t=F_wZU5pmAxwLBFZb_bwXXg&s=19

@tomoki どうなんでしょうね。ものによるというか、かなり制約されよく設計されたDSLがあり、それに対するIDEサポートがあるのであればコードでもという気はしますが、汎用プログラミング言語がWebUI上からいじれるだと、「もうちょっとGUIを作ってくれ〜」の気持ちになるか、「Vimで書きたい...」のどちらかになりそうな気はします。

kintoneでポチポチするのがめんどくさいのは、わかります。自分のばあいは、それをコード表現で記述したいというより、もっとUIを工夫してほしい、みたいなのになります。

@tomoki たとえば、sshで本番環境にはいってコードを直接編集する、というのとは感覚はかなり違います。サーバーというものやソースコードというものの実体が見えなくて、アプリケーションの上にアプリケーションを構築する、ということになるので。メリットというよりは感覚の違いで、でもこの違いがあると、コードを書くのがめんどくさい手続きに感じられるくらいにはけっこうおおきいとはおもいます。

GPT-3には思考がある/ないかと問うより、それはどういう学習プロセスであり、それに対して人間はどういう学習プロセスであるか、という問いをたてるほうがたぶん実りがある

喫煙の話が含まれますわ

わかばを吸った後にバナナを食べると口の中が野焼きの香りになりますわ

@tomoki notion とかがノーコードで簡易データベースアプリみたいなものを作れますが、デプロイしないでいい(あるいは、そういう環境を構築しないでよい)というのは楽だなとおもいました。

すげー

大谷対トラウト、まじで実現するのか

別の言い方をすると、ある主張について、そうであると考える理由とそうでないと考える理由を集めて、自分がどれに説得力を感じるかを確認することで、自分の価値観において重点が置かれているのがどこなのかを把握するという内的な模索こそが、この形での議論の本質だと思うのよね

こういうケースで私は外延的に性質を追究する傾向があって、たとえば「私は植物に知性がある/ないと思う、なぜならhogeのような感覚/類似事例があるからだ。故に知性があるという状態とはfugaという性質を満たしていると考えるのが自然であると主張したい」みたいなことを考える。

知性がそのまま定義できないなら操作的に定義できるようにしちゃえ!みたいな。

「植物に知性はあるか」という問いって、答えがあるかどうかというよりゴールポストを動かそうっていう話なんですよね。自分たちは知性というものを知っているように考えているけど、じっさいにはなにが知的な振る舞いなのかって定義できないので、自分たちが「知的な振る舞いだ」と認知しているものに知性があると認知している(おかしい)。そうすると「知性がある」という問題は「知性があるという認知」という問題にすりかわる(そもそもこれがチューリングテストだとおもう)。知性があるという定義を知性があるという認知の問題にすりかえるのが、知的に不誠実だということになるならば、知性とはなにかについて定義する必要がある(一休さんみたいな)。

植物に知性はあるかどうかという至極まじめな議論は、おそらくまじめ故に正解が得られないと思う。なぜって、植物になったことも無いのにどうして植物にとっての知性が分かるというのか。

もしかしたら、人類とは全く異なる体系の知性を彼らは持ってるかもしれない。人類が理解できないだけで、彼らには彼らなりの知性があるかもしれない。けれど、それを人類が理解できなければ、それは人類にとっての知性とは言えない。人類が知性と認められる知性とは言えない。
したがって、人類は人類が理解できる知性しか知性と認めることができず、人類とは全く異なる性質の知性は、人類が理解できないという理由から知性があるとは認められない。
もしかしたら、植物の知性が自分たちとは違う知性であるために人類の知性が理解できず、「人類には知性があるのではないか?」と実は人類の知らないところで考察しているかもしれないように。

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