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運動の発端において「作品の保護」が目標になったことに問題があるとおもう。「作品の保護」を目的化すると「作品の保護」の理論的な価値を述べることになる。批評的言説がここに終始している。

敗北を前提としつつ(撤去されてもよしとして)、別な目標をセットしていくなどの議論があってよかったとおもう。でも宇佐美問題からこのかた、作品の保護そのものが運動の目標になってしまっている。

沢山さんの記事とか典型だけど、批評家は宇佐美問題との連続性でこれを語っている。だから当初から「作品の保護」が目的化していて、事象の差異に視線が向かないし、「作品の保護」についての理論的言説を述べてしまう。「作品の保護」についての理論的言論が、今回の記事のように作品内在的な価値の話になると説得力をもたない。作品廃棄の歴史とか語ったほうがいいんじゃないかとおもう。価値があったって捨てられたり破壊されたりなんていくらでもあるのだし、残すことと捨てることの意義は作品内在的価値の問題ではぜんぜんないとおもう。
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