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京都学派が、近代化による専門分化を批判し、その乗り越え(=近代の超克)として新しい秩序、哲学による体系化を図るのは、まさしく「総力戦」に哲学的根拠を与えることだし、その現代的意義(当時の)を言っているんだな。総力戦の哲学的表現としての京都学派。

彼らの考えでは(軍部も同じだけど)、思想戦という側面をもっていたが、後世から見ると、じゃあその思想戦ってプロパガンダとなにが違うのってなる。

京都学派による座談会、なんかうまい具合に体系的なものがでてくる、もしくはそれを創造すべきだ、それこそ新秩序なんだ、西洋近代は旧秩序だ、そういう秩序を形成することが総力戦の意義だって話ばっかりしているんだけど、この人たちには他者というものがなくて、中国にせよ他のアジアにせよ日本のように近代化しなければならない、日本の戦争の意義を理解させたいみたいな無茶苦茶言っているのもやっぱり他者がないからで、自国の立場以外は無いに等しいし、内部的にも統制が取れる必要があるので分裂的な態度は排除することになるよな。
「近代の超克」座談会のほうは、まあ亀裂入りまくっているんだけど、その話の成立しなさのほうがぜんぜんマシだなとおもう。
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日本の戦争、まじでしょうもない...

京都学派、けっきょくヨーロッパ近代個人主義憎しで「総力戦」という観念のもとに、専門分化した各領域に統制的な介入をしていく国家というものを秩序だと考えていて、当時のイデオロギーそのものなんだけど、それはともかくとしても、なんというかそういう統制的な秩序しかイメージできなかったのはやはり彼らの限界だなと感じる。マイケル・ポランニーとかが彼らよりちょっと上の世代にいるけど、彼は生命の創発的な特性を社会に敷衍して考えていたわけで、京都学派の面々が新しい哲学が必要だって言っても、古いモデルしかもってこれていない。