京都学派が、近代化による専門分化を批判し、その乗り越え(=近代の超克)として新しい秩序、哲学による体系化を図るのは、まさしく「総力戦」に哲学的根拠を与えることだし、その現代的意義(当時の)を言っているんだな。総力戦の哲学的表現としての京都学派。
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京都学派による座談会、なんかうまい具合に体系的なものがでてくる、もしくはそれを創造すべきだ、それこそ新秩序なんだ、西洋近代は旧秩序だ、そういう秩序を形成することが総力戦の意義だって話ばっかりしているんだけど、この人たちには他者というものがなくて、中国にせよ他のアジアにせよ日本のように近代化しなければならない、日本の戦争の意義を理解させたいみたいな無茶苦茶言っているのもやっぱり他者がないからで、自国の立場以外は無いに等しいし、内部的にも統制が取れる必要があるので分裂的な態度は排除することになるよな。
「近代の超克」座談会のほうは、まあ亀裂入りまくっているんだけど、その話の成立しなさのほうがぜんぜんマシだなとおもう。
「近代の超克」座談会のほうは、まあ亀裂入りまくっているんだけど、その話の成立しなさのほうがぜんぜんマシだなとおもう。