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おもしろい。

日本戦後美術のジェンダーを考える
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/records/141

ぜんぜん別というか個人的な関心事なんだけど、明治〜大正期にかけてけっこう女性画家がいるのだがあまり調査されておらず、どういう背景から登場したのかが議論されるどころか議論の土台がまったくない。議論の土台がないがゆえに、明治大正期には画壇は女性差別的な構造をもっていたから女性画家はでてこなかったとするフェミニズムの美術史語りが通用してしまうことすらある。それ自体転倒そのものなんだけど、構造的でないように見える事象って無視しがちなんだよな。

中嶋の議論が、戦後の女性アーティストが群をなして登場したことが、一見構造的ではないように見えることについてけっこう詳しく検討していて、議論の立て方そのものが参考になる。
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さっきの菅原論考と比較していいかというとあれだけど、菅原が男女二元論に捉われてしまっているのに対して、中嶋は男女二元論を前提としつつ作家がその男女二元論性とどういう距離感をとっていたかを明らかにしている。「男/女」はベタな前提ではなく、「男/女」という割り当てにたいして作家や批評家がどういう態度だったかが問題化されていて、こっちのほうが適切に議論を組みたてられるよなとおもう。
https://critique.aicajapan.com/7899

菅原論考の問題点は、「汚す」行為を「男性的なもの」とすることによって、「片付ける」行為を「女性的なもの」とすることにあり、これ自体が遂行的に特定の行為をジェンダー化することになっている。「男性性/女性性」はここでは自明に存在し、かつ論考はそれを強固にしてしまう。
中嶋論考の例を出せば、具体の女性作家が幾何学的抽象を好んだという事例を挙げて、「幾何学抽象の世界は、合理性、科学、客観性によって支配される「男性的な領域」であると一般的に受け入れられてきた」ところに、田中敦子らがこういった様式を好んで用いたことをもって、ジェンダーを攪乱するよう振る舞った事例としている。