あずまんが、なぜ節制のような考えになったのかよくわかっていないのだけど、近代社会の常識的な(リベラルな)前提として、欲望はその行為の結果が悪い場合にのみ問題があるのであって、その場合でもその欲望や善意・悪意などの内心が評価対象になるわけではなく、基本的には行為のみが評価対象になる。その意味でよい欲望も悪い欲望もない。それは信仰の自由とかとおなじで内面に踏み込まれて評価されるべき理由がないからだとおもう。制御対象となるような欲望の多様性は、それが行為につながる場合のみ評価対象になるものだとおもう。とはいえ、判決において、「殺意」があったかどうか、みたいなのはかなり重要なものとして処理されているとはおもうけど(他方で善意というものは法的な評価にはほとんどならないのではないか)。
カマラ・ハリスの敗北をリベラリズムやポリコレへの反感とくくるのは、まあそういう見方もあるよねとはおもうけど、リベラリズムやポリコレがキリスト教道徳の延長線上にあり、それが敗北したのだと、総括されると、それこそ大きな物語すぎる。というか大きな物語の崩壊をいつまでも語りすぎるので、いつも大きな物語が延命されていて、筋の通らない主張にまでなっているようにしか見えない。
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