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写真や映像という問題系を扱う絵画は国内でもずっと流れというか一定頻度で登場して、名前は出やすいけど美術館に行く例が少ないようにおもう。めちゃくちゃ雑に言えば日本におけるリヒター以降という話なんだとおもうけど、文脈化されてそうで意外とされていなくて、美術館にいかない。
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リヒターとかトーマス・ルフとか、ドイツ系の映像的な表現の問い直しは、メディウム批評的なスタンスとして受けとられ、日本で類似の表現がでてくるときにはわりかし無視されがちというか、問題設定はドイツ系の作家と似ているというか地続きだとおもうんだけど、ベッヒャー派みたいな柱がないため文脈化されづらい、みたいなことか。

まあベッヒャーとかリヒターみたいな柱がないと、西洋中心主義以前の問題として、中心に対する周縁に見えてしまうよなぁ。「リヒター以降」という見え方をしてしまうのがそもそもそういう「周縁」化された結果でもある。たぶん自分たちの世代で「リヒター以降」に見えてしまう画家は、20年くらい前の川村のリヒター展がひとつの契機としてあったんじゃないかというのはおもうし。

自分の世代が映像というものの性格について考えるときに、エヴァとオウム事件と911というのがあり、エヴァとオウムはおなじものの二つの現れのように感じていて、自分にとってそれはテレビというものの象徴だった。911が起きたときは、親が「映画みたいだ」と言っていて、自分はそれに対して侮蔑的な感情があったのをよく覚えている。自分のリアリティを構築していたのはテレビで、事件が起きた場所との距離についての混乱した感情があった。

自分は教育のある家庭ではないことにコンプレックスを抱いていたけど、考えてみれば、本を読んだり絵を見たり描いたりということに興味を持ちはじめたのはこの時期で、かなり意図的な選択としておこなわれており、テレビから距離をとる必要があったからだった。