美術手帖7月号が「先住民族のアート」特集なんだけど、マリオ・A・カロという人が、先住民族のアートは近年おおきく盛り上がってきたしマーケットも拡大してきたが、現代美術のマーケットとは完全に住みわけがある、というようなことを書いていて、かなり興味深いとおもった。
アメリカ人から見れば、浮世絵でもそうだけど、日本人の作ったアートというのはこの「先住民族のアート」みたいなもので、その特有のマーケットがあったのが、村上はあきらかに現代美術のマーケットを荒らしにきた。荒らせるだけのロジックを組んでやってきた。欧米のアートマーケットではけっこうショックだったとおもう。クーンズやハーストらがやっていたマーケットへの挑発よりショックだったんじゃないかという気がする。
アメリカ人から見れば、浮世絵でもそうだけど、日本人の作ったアートというのはこの「先住民族のアート」みたいなもので、その特有のマーケットがあったのが、村上はあきらかに現代美術のマーケットを荒らしにきた。荒らせるだけのロジックを組んでやってきた。欧米のアートマーケットではけっこうショックだったとおもう。クーンズやハーストらがやっていたマーケットへの挑発よりショックだったんじゃないかという気がする。
クリフォードのダイヤグラム、これは非西洋の「モノ」が分類されるときにどこかにマッピングされるという意図だけど、クリフォードの話ではこの象限間の移動はある(おみやげ的なものがアートに分類されるとか)。ただ、それを可能にするのは結局「西洋における言説」でしかありえない。日本人が日本語で「これは芸術だ」と言っても意味がない(この図における意味としては)。
村上がやったのはこういう話で、オタクカルチャーとか日本で生じた「部族美術」みたいなものを、アートの領域に移しかえた、と単純に言えばそうなるんだけど、それが先に書いたように「西洋における言説」を経由しないとこの書き換えは本来不可能なわけで、そこをやってのけている。西洋において有意味な言説を生みだしているから、この攪乱が可能になっている。
村上がやったのはこういう話で、オタクカルチャーとか日本で生じた「部族美術」みたいなものを、アートの領域に移しかえた、と単純に言えばそうなるんだけど、それが先に書いたように「西洋における言説」を経由しないとこの書き換えは本来不可能なわけで、そこをやってのけている。西洋において有意味な言説を生みだしているから、この攪乱が可能になっている。

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