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イエモンの悲しきAsian Boy、日本人であることじたいの去勢的蹉跌だとおもうけど、こういう自己表象が「イエローモンキー」ということでもあり、今回のコロンブスとかもあわせて、日本人の自己表象問題として誰か論じてくれないかな。森村泰昌の分析も入れてほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=Gr_X-WccMnc

東大全共闘が三島を「近代ゴリラ」としたやつ、「東大動物園特別陳列品」で筋肉とペニスという図で、すごい差別意識丸出しだけど、イエモンみたいな自虐意識ではない。全共闘側が人間として観察し、野蛮な三島が陳列される客体である。
https://gorillamodernism.hatenablog.com/entry/2018/12/22/141534

このへんが、森村泰昌(1951生)とか村上隆(1962生)とか、世代が下ってくるとどこかで自己認識がイエローモンキーになる。吉井和哉が1966年。欧米のアート・文化と自己の身体的・文化的バックグラウンドのギャップが彼らの表現の問題を磁化している。これがもっと世代を下ってバブル崩壊的な世代にもなるとイエローモンキー的自己表象がどこかで無くなるとおもう。

1960年代には工藤哲巳がインポテンツを主題に制作していて、それはやっぱり安保的な話ではないかとおもうのだけど(軍事力の欠如=男性的自己実現の失敗)、全共闘の全能感はちょっとすごい。森村とか村上とか見てると基本「失敗した男性」みたいなモチーフが日本人男性という自己意識のなかで系譜づけられるはずだけど、全共闘だけ違っていて迫力がある。

名誉白人とイエローモンキーという二つの項目は、「意識の上では西洋人」だけど身体には黄色い猿の特性が刻みこまれているという対比で、鏡を見たときに自己意識と身体のギャップが「イエローモンキー」という認知を生みだす。
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90年代からゼロ年代くらいにかけて、こういうセルフオリエンタリズム的な表象は一旦終息するとおもう。美術のほうで会田誠とかになると海外輸出あんまり考えていなくて、おかけんパロディみたいな内輪ネタやってたのは外からの日本人表象みたいなのを問わなくて済んだからでもある。