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技術的・構造的な差というより、マクルーハンの語るメディア論みたいなもので、本→ブログ→SNSとテキストメディアが移行する際に、その移行の差分は「無意識的に」受容される。そのメディア変遷において無意識が受けとる差分こそ、「メディアはメッセージである」とマクルーハンが言うところ、ではないかとおもう。

ただ、マクルーハンがこういうとき、前提となるのは「ある一時代に支配的なメディアが存在する」「技術は時間的に進歩(もしくは変遷)する」ということで、いわゆる技術進歩史観を前提とすることになってしまう。複数の技術・メディアが併存する状態でもいいやんって最近考えている。
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