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江戸時代はかなり長く、いつのまにか近代を胚胎しているけど、幕府も遊廓も不変であるかのように倒錯してしまう。

「遊廓はセーフティネットだった」という言及がめちゃくちゃバカにされていたけど、当初の幕府の機能に富の再分配も雇用の創出もあったはずもなく(それが課題だとすら認識していなかったとおもう)、遊廓がセーフティーネットとして機能するのはそうでは?とはおもってしまうな。そのへんの証拠がどのくらいあるのかもわからないけど、網野義彦の議論に沿うと変な話ではない。
遊廓の性格は江戸中期くらいから変わるようで、それが蔦屋重三郎のような出版人の登場と、出版文化に支えられた浮世絵の隆盛に代表されるとおもわれる。歌麿とかに代表される派手な出版文化が起きるのが田沼時代で、田沼失脚後には蔦屋や歌麿らは厳しい弾圧にあう。これは、網野史観的な「公界」と封建権力の相剋(中世の延長)と捉えるべきなのか、それとも近代的な資本主義の勃興(近代の始まり)と捉えるべきなのか?

田沼政権の金権政治で貧富の差が拡大、農村が荒廃している。 一方では都市部の金持ちの金余り状態をつくりだし、遊廓が派手になる時期でもある(蔦屋重三郎や歌麿、鳥文斎栄之などの登場)。当時の金持ちにお金を元手にして産業を生みだす…など期待できるはずもなく、遊興に使う以外になくて遊廓が発展してしまったんだろうな。それは他方で貧困化する農村から人買いが容易になるということもなんとなく推測できる。

田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させた。富を商品流通構造に係わる一部の生産者へと集中することによる貧富の差の拡大が進行し、小農の経営を破壊し、離村する農民の増加を促した。離村した貧農は都市へと流出し、農地は「手余り地」となって、耕作されずに放置され、農村の荒廃を生んだ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

こういうの見ると遊廓におけるメディアの発達は近代のはじまりでもなんでもないな。蓄財の観念がなくて資本をもとでに資本を生むみたいなサイクルがない。基本的には田沼政権下での堕落の一部と見てよさそう。
江戸中期の浮世絵をどう見ていけばいいかだいたい理解できた気がするので、このあと(歌麿らの世代の後)北斎や広重がでてきて、風景画が発達する理由が気になるな。

芸大の大吉原展は、「公界の格式」などの言葉がでてきて、でも中心は蔦屋重三郎や歌麿などの時期のようなので、中世史の概念をもって近世史を見る筋悪な議論になりそうな気がしてきた。

この時期、立身出世主義などとはま逆に、武士が浮世絵をやるなどがあり、それがいま千葉で展示している鳥文斎栄之なのだが、この時期の特徴なんだろうな。それだけ町人というか吉原周辺が強かったんだろうという気がする。図録はいつも通り金権政治の説明とかないんだが...。
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