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インターネット上で発生するコミュニケーションのトラブルってすごい感情的なものになりがちなのは何故なんだろう。

インターネット上でのさまざまな発言、こういうまあどうでもいいものも含めて、自分自身と切り離せないような実体感がある。

ヤフオクでちょっとトラブって思ったけど、あれは報復的行動が取れるようになっている。そしてその報復的行動が妥当かどうかについて、やり取りのコメント欄が見えるようになっていて、あとから出品者なり買い手なりを評価できるようになっている。
これは、たぶん「言論のアリーナ」みたいな発想でできているんだけど、そもそも「報復的行動を取れる」という設計上の選択がある。
思うに、ツイッターもこうなのだ。ツイッターが可能にしたのは、報復的行動としての言論のアリーナなのだ。議論を開示せよ、判定は世間が行う。しかし、これは実際には報復的応酬そのものがアーキテクチャに組み込まれているから発生する現象でしかない。

「報復できる」はインターネットが生み出した最悪の娯楽だと思う。

報復を可能にするアーキテクチャってツイッターの凍結とかもそうだけど、罰によって人間の行動をコントロールできるという考えの上に成り立っている。

現代のふつうの社会じゃん...

トラブルなんて、ふつうはなにかあってもトランザクションをクローズしたらはい終わりなんだけど、ヤフオクはその後に「悪い評価」みたいなものを付けさせてそこにスレッド状にコメントの応酬ができるようにしている。これは、その閉じたトランザクションを蒸し返させる。なにかムカつくことがあっても、ふつうは水に流しておわりなのに、敢えてそうさせない。「店員が嫌だからあの店いかない」で済むことを、そうさせない。「あの店行かない」はただの好悪の問題だけど、「あの店は行ってはいけない」と言い触らすことは既に報復だし悪質な宣伝を含む(もちろん実際に行くべきでない店もあるだろうけど)。ヤフオクの「悪い」という評価がやらせようとしているのはこういうことである。
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さんざんバカにしてきてしまったけど、コミュニティノートはまだマシな仕組みかもしれない。なにかある問題の検証をどうするかというときに、そのコストを持つ動機が報復にあるかどうかは重要な話だとおもう。とはいえコミュニティノートが付こうがなんだろうが利用者は報復的にしか使っていないけど...。