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ハーマンの「非唯物論 オブジェクトと社会理論」にでてくる「共生」概念はけっこう使い道ありそう

「20世紀に繰り返し登場した知的修辞の一つに、モノは活動に、静的な状態は動的な過程に、名詞は動詞に換えられなければならないという考えがある。(...)少なくない著者たちが「モノは何をなしうるか」ということが「それは何であるか」という問いよりも重要であるという考えをいまだ後生大事に抱えこんでいる。」(『非唯物論』pp.70-71)

「それは何であるか」と「モノは何をなしうるか」のペアは、だいぶ前にDCIアーキテクチャの話でしばらく考えていたけど、あまり答えがなかった。
https://digitalsoul.hatenadiary.org/entry/20100131/1264925022

「GUIに取り組むとき、ユーザは2つのことを行っている。すなわち、考えることと実行することである。」コプリエンのなかで、「考えること」に対応しているのが、オブジェクト指向が「構造」を支えてきたという話で、「実行すること」については「インタラクションが見いだされるべき明確な「場所」はGUI上にもコード内にも存在しない」とあるとおり、対応するものがない(これはコプリエン説)。コプリエンは、この思考と実行の人間側の行為に対応するものを、ほかのところで、システム要求として "what system is" と "what system does" と言い直す。"what system does" を記述する手段がないからDCIやろうっていう話をしているんだけど、まあこれはあんまり筋のいい話ではない。

それよりも、「共生」という概念によって、 "what system is" と "what system does" の区分がけっこうどうでもよくなりそうである。単一のオブジェクトを組み合わせたオブジェクトがあるとして、それはなにかといえば結局オブジェクトだ。けどそれは分解可能なものとしてあるわけでもない。
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コプリエンはこのときあきらかに人間中心主義におちいっていて、それが知る主体と行為の主体の二重化によくあらわれている。これに対応する形で、システムも知識の提供と行為の提供の二種類の要求にさらされることになる。知識の提供のほうがいわゆるSoR(system of record)としていわれるものに対応できるが、行為に対応するものはあまりはっきりしたものがなくて、SoE(system of engagement)とかUXとか呼ばれていたものが2010年前後くらいからでてくる(もちろんUXなんてもっと前だけど)。これは動員のための技術だと呼んでも構わないとおもう。
なんのことはなくて、結局主体概念の再構築に失敗している。というより、システム/ユーザーの関係において、その二者が別な存在者であり、システムがユーザーに奉仕するという関係でのシステム構築とは、常に逆であり、ユーザーこそシステムに奉仕させられるものになる。「システム」なる不透明な概念を不可視化することで誤魔化してきたわけだ。

2010年代にデザインに与えられた役割というのは、「システム」をいかに不可視にするかということで、それがUXだと呼ばれていた。コンピュータはユーザーの眼から消えていなければならない、その消去の技法こそがデザインだった。