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しばらく前に書かれた、ファーレ立川の岡崎作品撤去問題についてのレビュー。
森脇氏は直接そう書いているわけではないけど、「誰のものでもない土地=公共空間」というものがフィクションでしかない、と書こうとしているようには読める(なぜその断言を避けたのだろう)。

これはけっこう考えさせる1文だった。
「公共空間がナショナリズムを切断する仕方で成立するのにもかかわらず、そのリベラルな空間を維持しようとする私たちは、結局、文化保護とか「精神的基盤」とかいう、ナショナリズムをパロディしたかのような論理を行使するしかない。」

これはアイロニーとして書いているんだとおもっていたが、最後に「結局私たちはつねに「父」に対して有効な抵抗戦略を発明し続けるしかない。」と「しかない」を繰り返すことで、ナショナリズムのパロディとしての「文化保護とか精神的基盤」を肯定している。

たぶん、ナショナリズムを否定したうえで、フィクションとしての公共は、現時点では「所有」にたいする有効な戦略として肯定せざるを得ない、という理屈になっているが、本人も納得はいってなさそうではある。
https://jinnet.dokushojin.com/blogs/reading/20230203_01

うーん、「結局私たちはつねに「父」に対して有効な抵抗戦略を発明し続けるしかない」はやっぱり敗北宣言にしか見えないなぁ
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そもそも、砂川闘争を「反米・日本民族独立のナショナリズム路線」とするのが、たぶんいろいろおかしくなっているんだとおもう。

こんなのあったのか。いけばよかった。
https://aans-event2366.peatix.com

誰のものでもない場所の公共性を言うなら、スパイラルジェッティとかを考えたほうがいいと思う。都市の中のこのサイズの人工物は取り外しも破壊も、それを想像することが容易すぎる。スパイラルジェッティは実際のモノとしてもあるが、想像上の聖地として存在していることが重要で、たぶん破壊されても構わない(実際に自然力に侵食されているし)。