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北澤憲昭が高橋由一の風景画について、柄谷行人の「周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner man において、はじめて風景がみいだされる」をひきながら、西洋的な「固定された唯ひとつの視点から世界を見通す視線の形式」の成立を見出そうとしているけど、どうだろうな...。
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北澤は、「視覚の制度の確立」をいいたいから、高橋由一の風景画によって遠近法的な観念の輸入が完成したということを主張したいわけだけど、柄谷の議論もふくめてだいぶ疑問がある。

北澤は、この「栗子山隧道図」(宮内庁、画像はこのリンクを参照)について

>この絵のしんとした雰囲気は、何かガラス越しに世界をのぞき込んでいるような感覚へといざなうが、思うに「風景」とは、つねにすでに前方にあって、見る者を疎外する景観、いうなれば博物館のガラス・ケースのなかの物品たちのような在り方を示すものであり

と述べるんだけど、同じ「栗子山隧道図」でもトンネルの中から見ている図もあるんだよね。

https://jpsearch.go.jp/item/cobas-48071

こっちは、空間に身体が包み込まれる状態を描いている。そうなると、北澤の主張する「見る者を疎外する景観」とは?という話になる。