高木浩光さんに訊く、個人データ保護の真髄 ——いま解き明かされる半世紀の経緯と混乱 - Cafe JILIS
https://cafe.jilis.org/2022/03/18/160/
ここまで(前置き)は個人情報の保護についての歴史的な経緯のまとめで、それがけっこうおもしろかった。
ヨーロッパでもプライバシーの保護という観点から議論されてきた経緯があるが、いろいろ紆余曲折あり、コンピュータによる個人にかかわる自動的なデータ処理こそが問題だということになってきた。プライバシーというのはこれまでも法的な対象だったが、たとえば70年代英国で検討された(Youngerレポート)のは、「プライバシー侵害の局面は、報道、放送、信用格付け機関、銀行、雇用、教育、医療、隣人による詮索、未承諾勧誘物、私立探偵、騒音、産業スパイ、技術的監視装置、そしてコンピュータと、多岐にわたるもので、コンピュータの脅威については最後にチラッとあるだけ」で、コンピュータ使用にかかわるプライバシー問題は「具体的な裏付けが最も少ない」とされた。
このYoungerレポートと同時期くらいに欧州評議会とOECDによる検討がはじまり、そこで「プライバシー一般」ではなく、「コンピュータ処理による個人データの利用」に的を絞るようになった。このへんが現代的意味での個人データの問題ということになる。
で、これは振り返ってみると、べつにコンピュータに特化した問題ではじつはなかった(コンピュータに絞って問題を検討していたはずなのに)。近代的な国家やいろいろな社会的機能は「データによって個人を管理する」ということを、そもそもやっている。誤ったデータによって個人を判断するな、といったことが、個人データのプロテクションという問題の背景にある。これはたとえば医大の入試で性別のデータを利用する、なども含む。
みたいなところまで読んだ。
このあたりもたいへん示唆に富む。
データというものはフォーマットが人為的に構成されるのが必然で、それはテーブル(表)の列の項目設計のこと、利用の目的があって初めてそれを設計できるのだと述べました。personal dataは、data controllerが利用目的に合わせてフォーマット設計し、data controllerが作成するものなのです。
…
日本で「個人情報」と言うと、「本人のものだ」とか言い出す人がいるでしょう? personal dataはそうじゃありません。data controllerが一次利用の目的のために自ら設計し、作成するものなのです。
…
「個人情報は誰のもの?」という問い自体が愚問だという話は、日本でも幾人かの識者がかねてより指摘していました。情報に所有権構成は無理があるという指摘ですね。情報はいくらでも複製できるから物権と違うのだとか、人格権に関わるものだから所有権で語れないとか、そういう指摘がよくありました。ですが、そういうことじゃなく、それ以前に、そもそもpersonal dataは、それを作成するdata controllerのコントロール下においてのみ観念される概念なのです。なぜなら、data protectionの法目的が、dataによる個人の評価を前提にしているからです。
ここで高木氏の言う data という概念は、誰かによって設計されたもので、これが個人と紐付いてその個人の評価に利用されるようなものだ。コンピュータ内のストレージとかにあるものが data というわけではなく、 data というものによって人間が社会的に構成されるような中間生成物みたいなもののことを指している。こういう次元としての「個人」という問題は、新鮮さがある。これは哲学方面とかではどうなっていたのかかなり気になる。
- replies
- 2
- announces
- 0
- likes
- 1
@tenjuu99 ドゥルーズ的問題でもあると思います…規律社会→管理/制御社会の精緻化で、人間もデータとしてアーカイブに登記されるんですね。