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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

田中功起の今回のやつ、まじで言ってるだけのやつで一番イライラさせられたけどな。それをキュレーターが実現しないのがおかしいみたいなこと言っちゃうのは、どんだけアーティストを甘やかせばいいんだ。田中功起がいくつもある提案のうちの一つを無理矢理でも実現するプロジェクトをたちあげて、実現のために具体的な障害とぶつかりながらやればよかった(そういうのをドキュメンタリーにでもすればよかった)。そういった模索は全然なくて、アーティストは提案するだけ、キュレーターが実現しないからダメとかそんなバカな話ない。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/does-the-future-sleep-here-nmwa-review-202404

Watch Stalker, Andrei Tarkovsky’s Mind-Bending Masterpiece Free Online

https://www.openculture.com/2024/04/watch-stalker-andrei-tarkovskys-mind-bending-masterpiece-free.html

ラッコが浮いているのを目撃するとうれしい。

[24時間放送]鳥羽水族館 ラッコ水槽ライブカメラ
https://www.youtube.com/live/creq_1I-llE?si=DvGvWG7mL5k5fgU0

自分がこの論考をみつけたのはこのツイートで、まあこれの引用RTを見ると悪意しかなく、まさに論考の分析対象となるようなものではある。引用RTが49、RTが422あるけど、何人が論考を読んだんだろう...。嘲笑されるような内容の論考とは読めない。
https://twitter.com/otakulawyer/status/1780472366591881615

「ネットワーク・ミソジニー」という概念は、おそらく Banet-Weiser の著作ではなく、本論考の概念のようだが、「反フェミニズム」というだけで、他には共通性のない集団が同時に「フェミニズム的」な集団を攻撃する、という現象を指している。論考で扱われるのは、暇空茜と煉獄コロアキで、これらはColaboへの攻撃としても相互に独立の活動であり、組織的な攻撃ではない。
複数の独立した主体が、ターゲットから「資源」を奪うよう動く。暇空茜も、煉獄コロアキも、Colaboを攻撃することによってアテンションを獲得し、それを資源として経済活動にまでしている。これははっきりいえば「ポピュラー・フェミニズム」の側もおなじで、アテンションを資源としてその社会的地位を獲得している側面があり、それゆえアテンションの奪い合いという様相になる(ちなみに本論考にも述べられているが、Colaboの活動にとってアテンションを獲得することは重要ではない)。

このあたりの理解の仕方は、話題になっていた北村・雁琳裁判において指摘された「訴訟ビジネス」というものと共通の問題。というかおそらくこの文脈を踏まえてのことなんだろうとおもう。

いくつかひっかかるところはあるけど、おおむねおもしろかった。

トランプの大統領当選を機に書かれたBanet-Weiserの著作が、いくつかの分析枠組を提供している。

  1. ポピュラー・フェミニズムの台頭(有名性がある=ポピュラーだが政治的・社会的な変革には繋がらなかったフェミニズム運動)
  2. 1に対応する形で、反動的な言説を「ポピュラー・ミソジニー」とする
  3. ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニーの闘争は、オンラインでのアテンションの獲得を求めるものである。このアテンションは政治・経済的な原動力となる

みたいなのが、おそらく元の Banet-Weiser の本におけるトランプ現象の分析枠組みになるのかな?

Banet-Weiser の著作について、本論考の著者はつぎのように整理する。

本著作の目的は、ポピュラー・ミソジニーが単なる言説から政治的な動員へとどのように進化し、いかにして父権制度を(再)確立するのかを明らかにすることにもあった。Banet-Weiser は、このプロセスの重要な要素として「ネットワーク化」を指摘する。ここでいう「ネットワーク化」とは、一見強いつながりのない集団や個人が互いに関連している際に、フェミニズムを共通の敵とみなしてハラスメントや誹謗中傷を連帯の手段とすることだと述べた(Banet-Weiser 2018, 118)。

次のような指摘は興味深い。

ポピュラー・ミソジニーの信奉者の主たる立場は、フェミニズムを社会の限られた公共資源を独占し、現在の男性の社会地位を揺るがし、現行の政治および文化の安定を脅すものと位置付ける(Banet-Weiser 2018, 5)。

ようするに、フェミニズムが公共的な資源を専有しているかのように見えているから、その対応物として、ポピュラー・ミソジニー的現象が発生する。

読んでいる

「悪」の団体を燃やす
––Colabo に対するハラスメントにはたらくネットワーク・ミソジニーの論理
https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2024/03/106_7.pdf

picture //Communication :
オトコは「さ行」で褒める、だって。

給料が入っていた。また出ていくとおもうと悲しい。出ていかないでくれ。

日本がちゃんと賛成に回ったのは偉い。アメリカはクソ

> ガザ地区での戦闘が続く中、パレスチナを国連の正式な加盟国とするよう勧告する決議案が、安全保障理事会で採決にかけられ、理事国15か国のうち日本を含む12か国が賛成しましたが、アメリカが拒否権を行使して否決されました。

> 賛成した国のうち日本の中東和平担当特使の上村政府代表は、ガザ地区の厳しい状況に言及した上で「当事者間の平和的な交渉を通じてパレスチナ国家の樹立を促すという観点に立って賛成した」と説明しました。

> 一方、アメリカのウッド国連次席大使は拒否権を行使した理由について「決議案が想定するパレスチナ国家と不可分なガザ地区で、いまもテロ組織のハマスが権力と影響力を行使している」などと述べ、あくまでもイスラエルとパレスチナの直接交渉による解決が必要だと強調しました。

パレスチナの国連加盟めぐる決議案 アメリカが拒否権行使 否決 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240419/k10014426571000.html

responsibilityってそうだよな

責任、「かくかくはしかじかの役割を果たすものとする」ときに、その「果たすものとする」が信頼によってしか成り立たないから、その信頼を裏切っては全体が崩れることを以て「責任」というものがあるとしている、ように思う

責任はわからないが、人が二人いるところに、神もまたいる、と聖書に書いてあった気がする。うろおぼえ。

他者のいないところでは責任は発生しない? それとも自分自身への責任というものもある?

責任がある、責任をとる、責任を果たす… それぞれのレイヤーで浮かんでいる「責任」がある

永井哲学のデカルト主義的な議論の構成と、彼がトランスジェンダー問題に関心を持つのは整合性がある。自分が永井哲学的な発想のなかで気になっているのはこういう↓点で、「真の」なにかを仮定することで、人間の常識的な生を「仮の」ものにしていないか。これはちょうどデカルトが真の基礎をもった道徳がわかるまでは仮の道徳に従うとしたのと対応しているようには見える。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AguRSjNJTUxp0UgKvI

永井均の議論の構成は仮/実をけっこう区分する思考の癖があるようにおもわれ、「偽の◯◯」があるということをやるからで、それは方法的懐疑のようなものに見える。山括弧の〈私〉もこの方法的懐疑を支えるものとしてあるようにしか見えないのだけど、それはふつうにデカルトでは?というのがある

永井均はニーチェの本書いているけど、それは倫理学的洞察の媒介にはなっているだろうけど、あまりニーチェっぽいというかんじはしない。

カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』の序章〜第1章を読んでいて、とにかくニーチェとニーチェ論者を敵認定して、それを倒すためにアリストテレスを召喚する振る舞いによる射程の狭さに呆れていたのだが、永井均の案件から出てくる論法もまた「とりあえずニーチェ葬っておけばいいだろ」の気配が濃厚で、SNSでも似たような論法か…という感想に。

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