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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

Fediverseはいわば《プロトコルを共有する人々が交流する空間》だけど、実際は多くの人々が既にSMTPやHTTPといった《プロトコルを共有する人々》になっているにもかかわらず、この《プロトコルを共有する人々》の集まりというのは《プラットフォームを共有する人々の集まり》よりもどうしてもダイナミックで捉えにくく、実感が難しいものになってしまうと思う。

@polidog pleromaですか?ivory は pleroma いまのところ未対応ですね。対応予定があるのかどうかわかりませんが。

なんと云うか、それなりに実績のあるマストドンやミスキーではなく、どうなるか良くわかってないblueskyや殆どどうなるかがわかってないthreadsが「大本命」って持ち上げられるの、良くわからないんだけど、もしかすると

「我々は大資本と結びついた巨大で安定したSNSサーバが欲しいのであって、fediverseが欲しいのではない」

って事なのかなと考えている。

少なくともThreadsに期待する理屈はそうなのではないか?

twitterの長文ツイート、まじでみづらいな...。行間詰まりすぎ。

「アイデンティティをコミュニティに所有される」という構造こそ、初心者を悩ませる諸々の使いづらさの根源だと思う。
「テーマに反したことを (心理的に/雰囲気的に) 発言しづらい」とか「複数のコミュニティに属するなら複数のアカウントを持たねば」とか「最初にどこのサーバにアカウントを作ればいいかわからない」とか、そういうの全部この逆転したモデルのせいでは?

このことを考えていると safe Rust を書いているときと似たような脳の部分を使っている感覚があって、「境界のあるコミュニティは誰が “所有” しているのか」というのは結構重大な未解決問題な気がする。
本来ちゃんと考えてそれなりのモデルを作らないといけないと思うんだけど、現状の “テーマ鯖” ソリューションは「コミュニティがアカウント (≒アイデンティティ) を所有する」という明らかに直観に反するモデルを使っている。
アイデンティティとアカウントが綺麗に分離できていればそれでもいいのだが、少なくとも DIDs 以前の ActivityPub は基本的にそのようになっていない

数百単位で溜まっていく未読フィードにうんざりしてRSS疲れを起こしたのがRSS衰退の原因ではなかったか……

kakau.app でこれくらいの図は書けるようになった

Mastodon がデファクトになってしまったのでもう仕方なく、今後はもう流れに任せて ActivityPub 上の概念が、利用前のユーザーになんとなく了解されるまで浸透するのを待つ以外にはなさそう。
Threads がAP対応するなら、多少理解が広まるかもしれない。

どーすりゃよかったんでしょうね。どうせ鯖が LTL を未実装であっても外部サービスが力技でクロールして疑似 LTL みたいなの作りたがった可能性は高いから、それを考えると原理的に可能であるものを API として提供してしまうのも自衛として考えられなくもない

潜在的な選択肢は多くあっていいんだけど、ふつうは、デフォルトのユースケースを代替できるかどうかということだけを知りたい。「投稿の際にローカルのみかグローバルか選べますよ!」って言われても、そんな概念がない世界から見ると「わからん...。ふつうの投稿だけはできないの?」ってたぶんなる。

ある製品の代替物を作ろうとするとき、その製品より多機能であってはならぬという鉄則があるのだけど(当社調べ)、「LTLのある/なし」という概念の理解につまづくとおもわれる。

分散型嫌いの声を見てみると、文化やノリが苦手というのは
割合として多いので、LTLなしという選択肢があることを周知できたらいろいろいい方向に行きそうではある

@tomooda E. Hutchins (認知科学者で、ドナルド・ノーマンの同僚)の「チーム航行のテクノロジー」という論文が、絶えず変化する船の現在位置と方角を割りだすのに、複数の船員の作業の相互作用によって計算が成立する様を描きだしていますが、これは環境・道具・人間の相互作用によって計算が成立するという意味で、 world-computer interaction の具体例に近いのかもしれません(現在の意味での computer ではありませんが)。
http://www.human-factors.seesaa.net/article/579561.html

と、ふわふわ考えているうちに、もしかしたらcomputer scienceはhuman-computer interactionに偏りすぎていて、world-computer interactionについてもっと考えたほうが良いのかもしれないと思った。具体的には何をするのかさっぱりわからんけど。

自分が使う技術を選択するのは自分ではなくて自分をとりまく世界だというのは、まあそうなんだろうと思う。インフラなのかどうかはわからないけど、自分とパソコンの間の関係より、パソコンと世界の関係のほうが、本質的に力が強いと思う。パソコンという一般名詞だけでなく、自分の目の前にある個体のパソコンについても、自分との関係より世界との関係のほうが強いと思う。

ねむい...

イーロン・マスクが車とロケットは作れても SNS は作れないのって結局友達いないからなんだと思う、書いてて辛くなってきた

技術決定論的な観念がどこからくるのか、その言説的な基盤の分析している論考ってあるんかな...
まあありそうだけども

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