pleroma.tenjuu.net

tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

@ttt_cellule このへんの流れ不勉強で理解できていなかったんですが、自分が最近考えていたタイプの言論は社会構成主義と呼ばれるもので、それに対する批判として新実在論や新唯物論がでてきているっていう流れなんですね。北野氏の叙述の背景は理解できました(雑という理解は変わらないですが...)。

楽典的解説含めてすごいのはこちら。

https://youtu.be/nx78spr-TxA

「カルチュラルアプロプリエーション批判」への不満勢の立場にも一定の筋があり、アプロプリエーションへの批判が「異種混交性を排除して文化の真正性」を保持しようとする傾向と混じってしまうからだろう。

たとえば、アメリカなり中国なりで変な着物や武士コスプレなんかをやっていて、そのコードや作法無視に日本人が怒る場合に、そこにナショナリストが大量に含まれることが容易に想像される。
あるいは、ドレッドヘアにする日本人を戒めて「それは黒人への侮辱になるから日本人らしい髪型にせよ」と叱責するときにも同じ構図が出る。抗議の際に、その声がエスノセントリストのようになってしまう。おのおのが「適切で真正な文化」のもとで生きれば良いのだ、というふうに。ここで各集団における権威主義多数派が絡んでしまう。

それを回避するためには、むしろ市場や文化の(財の)交換の側面を推進する、というふうになるのだが、ここで混交か伝統保持かの二者択一にしないロジックが必要になるのだろう。

@ttt_cellule まだ第一部読み終わってないんですが、ポストモダンがぜんぶ記号になってしまって、それは資本主義と相性よかったみたいなことを言ってるところで「ええっ2021年にそんな雑な整理でいっていいの??」とはなりました。相性のよさというのも、かんたんな分析もあたえずに、芸術の記号的な読解と商品の記号性が似ているみたいな物言いが、マッピングにしても掘ってなさすぎていいのかこれってなってます。

2010年にクラウスがポストメディウム論を打ちだし、その8年後に「自分はポストメディウムの時代だと謳っていたが、メディウムについて改めて真剣に論じなければならない」と発言し、ポストメディウム論の批評的立場を転換したとか書いてあるけど、そもそも1990年代後半くらい(?)からポストメディウムについて語っていたはずだし、最初からメディウム論にたいする否定的な媒介として位置付けられているはずで、立場の転換なんてしていない。

内容もええっこれいいのか?みたいなのが多いな...

北野圭介「ポストアートセオリーズ」、内容はともかく文体にウッてなるな...

中平卓馬、近美でやるのか
https://www.momat.go.jp/exhibitions/556

「美術史の終焉?/現代美術と現代の美術史に関する諸省察」(ハンス・ベルティング)

ニューヨーク近代美術館の元館長アルフレッド・バー・ジュニアのカタログは、1930年代には早くもアヴァンギャルドの年代記でありいわば教理集のごときものとなっていた。「美術家にとっては(略)伝統を歴史意識で置き換えることは、多様な可能性を絶えず選択しなければならないということである。あれではなくこの美学的仮説に従うとの決心は、芸術家としての死活問題である。過去の一方通行路からの美術の解放は、絶えざる不安と一体である。(略)」独自にこのことを予知したピカソ以来、美術は「個人が能力の限りそこから引き出すことを許された共有財産」なのである。そして個人はその共有財産に注釈を加えることも、したがって占有することもできる。つまり引用は新しい芸術的表明の伝達手段となる。

1987年の美術史家の本だけど、美術館にあるものや美術史上のイメージは引用可能なデータベースとして構成され、だれでも利用可能なコモンズである、というのはずいぶんシミュレーショニズムっぽい話で、80年代っぽい。この芸術的な方法としてのアプロプリエーションが、ピカソを起点に話を展開しているのは象徴的だとおもう。ピカソが利用したイメージにはトロカデロ民族博物館に入っていたようなモノがたくさんあった(たぶんベルティングはあまり意識していないとおもう)。 「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」が84年で、ウィリアム・ルービンは「部族芸術」を近代美術のカタログのなかに編入しようとしていたと言える、それによってピカソのアプロプリエーションを肯定的に把握しようとしていた。 ベルティングがシミュレーショニズムの理論家だとはおもえないけど、80年代がこういう時代だったようにはおもえる。モダニズム美術の歴史的な活力といったん距離ができ、美術史を引用可能なデータベースとして再構成しようとしていた、というように見える。 ルービンやベルティングにはポストコロニアリズム的なパースペクティブはないわけだけど、 cultural appropriation の話なども、この80年代的な意識の裏面を見ているような印象がある。

モダニズムが重要なのってそれが世界性を持つっていうことで、単純に西洋的文明だとは言えない。

近代的な経験の分析からはじめるとかしないとなにもわからない気がする

大手新聞とかが6月の電通法改正を「クッキー規制」みたいに言ってしまうから、「Cookieを利用しないIDソリューション」であれば分析に使っていいみたいなデマを吐くやつがでてくる。
https://twitter.com/XadAqr/status/1662815523871285249

たしかにこれはなかなか...

おそらく歌番組などで生や収録で歌っていたのを聴いてたかどうかが大きいのでは。

録音されたものはそれほどひどくない。

ナウシカの安田成美イメージソングについて、俺より5~10歳くらい上の世代の人たちが「当時から作品と合ってないと思ってた」「ごり押しPRっぽくて鼻白んだ」「曲はいいけど歌は棒読みでひどいなと思ってた」みたいなことをTwitterで言ってる。
公開当時俺は小一で、映画館ではなく数年後にテレビ放映で見たんだけど、ナウシカというと安田成美の歌というイメージだったし、本編で流れなかったのが意外というか物足りなく思ったものだった(エンディングで流れると思ってた)。

バウハウス的なモダンデザインのなかでは、やはりアートをプロトタイプにしているから、作家性というものがまとわりつくし、最終的に構成された「形=デザイン」が解体不可能な統合性を持っている必要がある。

でもこういうカタログ化はちゃくちゃくしと進行していて、ここ数年ではこのカタログ及びその結合原則について語ったものはデザインシステムと呼ばれるようになった。デザイナーの役割はあきらかに変わっており、統合的なモノを作ることではなく、生成的なシステムを形成することになってきている。

記事の本題とは関係ないのだけど、この手のUIデザインのカタログ化って、ユーザーの操作面を交換可能な変数と捉える発想が根底にあり、ABテストなんかもそこからきている。こういう性格は、モダンデザインのユニタリーな性格とは対立するものだとおもっていて、これが現代のウェブなりなんなりの「デザイン」を対象化することを困難にしているとおもう。ユニタリーでもないし常に変化しているから固有の境界がなく、分析しづらい。
https://note.com/itoh4126/n/nc991fd486030

セカンドライフでの経験を振り返りつつの、メタバースと障害者福祉の考察。技術の不完全さが、そこにいる人にとっての心地よさにつながる場合もあるというのは私も実感としてよく分かる。そういう意味ではマイクラなんかは非定型発達の人や子どもたちにとって居心地が良いのかもしれない。

個人的にはメタバース関連の技術がどんどん進歩して現実世界をほぼそのまま再現する状態になったら嫌だなと思う。解像度の低さやレイテンシがコミュニケーションのワンクッションになる場合も多々あるので。
https://soan.jp/hyperworld_secondlife

»