楽典的解説含めてすごいのはこちら。
「カルチュラルアプロプリエーション批判」への不満勢の立場にも一定の筋があり、アプロプリエーションへの批判が「異種混交性を排除して文化の真正性」を保持しようとする傾向と混じってしまうからだろう。
たとえば、アメリカなり中国なりで変な着物や武士コスプレなんかをやっていて、そのコードや作法無視に日本人が怒る場合に、そこにナショナリストが大量に含まれることが容易に想像される。
あるいは、ドレッドヘアにする日本人を戒めて「それは黒人への侮辱になるから日本人らしい髪型にせよ」と叱責するときにも同じ構図が出る。抗議の際に、その声がエスノセントリストのようになってしまう。おのおのが「適切で真正な文化」のもとで生きれば良いのだ、というふうに。ここで各集団における権威主義多数派が絡んでしまう。
それを回避するためには、むしろ市場や文化の(財の)交換の側面を推進する、というふうになるのだが、ここで混交か伝統保持かの二者択一にしないロジックが必要になるのだろう。
https://www.momat.go.jp/exhibitions/556
「美術史の終焉?/現代美術と現代の美術史に関する諸省察」(ハンス・ベルティング)
ニューヨーク近代美術館の元館長アルフレッド・バー・ジュニアのカタログは、1930年代には早くもアヴァンギャルドの年代記でありいわば教理集のごときものとなっていた。「美術家にとっては(略)伝統を歴史意識で置き換えることは、多様な可能性を絶えず選択しなければならないということである。あれではなくこの美学的仮説に従うとの決心は、芸術家としての死活問題である。過去の一方通行路からの美術の解放は、絶えざる不安と一体である。(略)」独自にこのことを予知したピカソ以来、美術は「個人が能力の限りそこから引き出すことを許された共有財産」なのである。そして個人はその共有財産に注釈を加えることも、したがって占有することもできる。つまり引用は新しい芸術的表明の伝達手段となる。
1987年の美術史家の本だけど、美術館にあるものや美術史上のイメージは引用可能なデータベースとして構成され、だれでも利用可能なコモンズである、というのはずいぶんシミュレーショニズムっぽい話で、80年代っぽい。この芸術的な方法としてのアプロプリエーションが、ピカソを起点に話を展開しているのは象徴的だとおもう。ピカソが利用したイメージにはトロカデロ民族博物館に入っていたようなモノがたくさんあった(たぶんベルティングはあまり意識していないとおもう)。 「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」が84年で、ウィリアム・ルービンは「部族芸術」を近代美術のカタログのなかに編入しようとしていたと言える、それによってピカソのアプロプリエーションを肯定的に把握しようとしていた。 ベルティングがシミュレーショニズムの理論家だとはおもえないけど、80年代がこういう時代だったようにはおもえる。モダニズム美術の歴史的な活力といったん距離ができ、美術史を引用可能なデータベースとして再構成しようとしていた、というように見える。 ルービンやベルティングにはポストコロニアリズム的なパースペクティブはないわけだけど、 cultural appropriation の話なども、この80年代的な意識の裏面を見ているような印象がある。
https://twitter.com/XadAqr/status/1662815523871285249
たしかにこれはなかなか...
ナウシカの安田成美イメージソングについて、俺より5~10歳くらい上の世代の人たちが「当時から作品と合ってないと思ってた」「ごり押しPRっぽくて鼻白んだ」「曲はいいけど歌は棒読みでひどいなと思ってた」みたいなことをTwitterで言ってる。
公開当時俺は小一で、映画館ではなく数年後にテレビ放映で見たんだけど、ナウシカというと安田成美の歌というイメージだったし、本編で流れなかったのが意外というか物足りなく思ったものだった(エンディングで流れると思ってた)。
https://note.com/itoh4126/n/nc991fd486030
セカンドライフでの経験を振り返りつつの、メタバースと障害者福祉の考察。技術の不完全さが、そこにいる人にとっての心地よさにつながる場合もあるというのは私も実感としてよく分かる。そういう意味ではマイクラなんかは非定型発達の人や子どもたちにとって居心地が良いのかもしれない。
個人的にはメタバース関連の技術がどんどん進歩して現実世界をほぼそのまま再現する状態になったら嫌だなと思う。解像度の低さやレイテンシがコミュニケーションのワンクッションになる場合も多々あるので。
https://soan.jp/hyperworld_secondlife