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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

実家かえったら小郡駅って言っている

「新山口」って駅名に未だに馴染みが無いんだけれど、「小郡」から改称されてもう20年になるのか、今年で。

>新山口駅 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E9%A7%85#%E9%A7%85%E5%90%8D%E6%94%B9%E7%A7%B0

∠( ᐛ 」∠)_

博物館学関連の授業ひとつもとってなかったの後悔している。当時まじで関心なかったんだけど、これ美大で必修になっていないのがおかしいくらいに思いはじめている。

「文化の「発見」 驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで」(吉田憲司)

西洋近代における「民族誌資料/民族美術」という概念の創造は、じつは「モダン・アート」という概念の創造と一体になったものだと考えられる。西洋が自己を中心とした世界システムを形成していく過程で、非西洋は「他者」化され、変化・創造・抵抗の主体としてではなく、受動的な対象として表象された。「モダン・アート」と「民族誌資料/民族美術」はこの一連の動きの両側で成立した概念だということになる。

これ、まさにいま考えたいことだなー。モダンアートという概念は結局、概念上対立的な性格をもったものとしての「非モダン」を利用しないと「モダン」を記述できない。そこで、一方においては社会集団から孤立した存在としての芸術家を措定し、他方で社会集団を代表するような民族美術を措く。こういう形で差異を通してモダンを規定していくことになる。吉田憲司の主張では、こうして同一の局面の両端に存在するものが近代美術館と民族博物館だ、ということになる。これはおもしろい主張だとおもう。

この議論が孤立した現象であるはずもなく、ほかにもこのような概念ペアを見出すことはできるだろうとおもわれる。個人的には、デザインという概念にたいしてこのような考えを適用してみるとどうなるのか、という点が気になっている。

調べたらエストニア公式動画で軽く触れられていて(01:30~)、「期間中なら何回でも投票し直すことができる」ことで秘密投票を守っているという説明。
https://e-estonia.com/solutions/e-governance/e-democracy/

あとは紙による「traditional voting」を必ず併用しているようなので、そちらで修正することも出来るのかもしれない。

「もし期間中ずっと監視下にあったら?」と考えるとこの仕組みは機能しないけど、それこそ一瞬の隙をついて再投票出来るので、事実上問題なしと判断してるのか。

まぁその仮定を置くなら、現投票システムでも対立候補への投票を妨げることは出来るので、大差ないと言えるかもしれない。
QT: https://fedibird.com/@haborite/110412896953469972
[参照]

ぜんぜん参照元を知らなかったけど、世界複雑すぎるな

ところで先ほどBTした記事、八巻香澄氏による「ミュージアムにおける脱植民地主義──シングル・ストーリーからの脱却」は副題でわかるとおり、ナイジェリア作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの昔のスピーチを参照しています。
しかしアディーチェのトランス女性に対する発言は、他者からいさめられても数年来変わっていません。それを批判したノンバイナリー作家Akwaeke Emeziへの対応もよくなかった。Emeziに問題がなかったかというとそれはまた別ですが。自らシングル・ストーリーの危険性を示されても困る。
https://artscape.jp/focus/10182871_1635.html

民博いったことないので行きたいな

博物館についての本読んでたら「1953年マナスル登山隊民族班採集品」と書いてあるのにあたって、そういえばそれってとおもったらやっぱり今西錦司だ。
https://ihc-japan.org/about/manaslu/manaslu2

サイードが言うようなオリエンタリズムは学問として制度化されたものだけど、制度としてのオリエンタリズムを解体するには語彙を解体しなければならない、ということになる(のだろうか)

ようやくサイード「オリエンタリズム」を読んだけど、サイードによると、用語「オリエンタル」はオクシデンタル(西洋)との差異を学者が定義し記述することで、オリエントの「本質」を規定してしまうような、学術的態度あるいは存在論だ。たとえば、言語学にセム語族という概念が発明され、それによってイスラム諸国の諸制度から「セム的」な特徴を記述する。なんでもかんでも「セム的」な本質を抱えているということになる。もちろんこんな「セム的本質」は虚構にすぎないのだけど、オリエントという述語、あるいはそれは存在論的な概念といってもいいのかもしれないけど、その述語によって、それは西洋との差異を記述する概念にほかならないわけだから、オリエントには閉じた本質があることになってしまう。

というようなことがやはり背景にあるんだろうなとはおもった。

BT 確かに古代オリエントは格好いいイメージでした!

言葉のイメージの良し悪しは時の経過や誤解で変化します。
orientalが米国で避けるべき死語になったのは、米国におけるアジア人の状況がそれだけ深刻で、いわゆる雑な言及に添えられがちだから、雑な言及を止める巻き添えになったわけです。
いっぽうで中国語圏ではorientalの訳語は「東方」でそこになんの屈託もありません。

「オリエンタル」、政治的に正しくない言葉とされているんですね。専攻が古代オリエント史で、授業の初日に「オリエント」の意味(=太陽の昇るところ)を語る教授の言葉から古代史のロマンを浴びた鮮烈な記憶があって、特別な憧れのある言葉だったのですが

表象システムの分析の重要性は、それが観客をどのように構成するかに尽きるのではないかと思う。表象システムは、それがある種の存在を自然で自明な存在者だと信じさせることにその役割がある。芸術とか作品という単位はどこからどうみても人工的な存在単位なのに、これに疑問を抱かなくさせるような装置がある。観客というのは、この装置のなかで、たとえば作品とよばれるような物と相関的に規定されるものだ。

博物館/美術館というのは具体的な制度に支えられた存在で、その制度がどのような存在論によって支えられているかというのは、具体的な問題として存在している。現代芸術の実践そのものがこういった問題にいやおうなしに関わっていることが多く、(その限界も含めて)理解・批評される必要はあるとおもう。

ただ下部構造的な力関係が上部構造としての諸々の表象に反映されることと、後者が前者を再生産するということは全然同値ではないし、影響があやふやな表象ベースの議論をするくらいだったらもっと割くべきリソースあるんじゃないのという立場もかなりあり得ると思う。

COLONIAL BEACH笑

日本では実状として、コロニアルやオリエンタルは「リゾート地」の意味で受容されています。
たとえば新しい高価格帯のレストランが「COLONIAL BEACH 横浜ハンマーヘッド」と命名されている。「レストラン植民地海岸」……。
https://spn.ozmall.co.jp/restaurant/6744/

しばらく前に git のデフォルトブランチが master だったり冗長構成を一般に master/slave と呼ぶのがどうなのか、という話があったが、その言葉狩りはやりすぎだといまでも思っているけど、領域別の難しさやどういった関係者がいるのかによる違いがあるなとは感じる。

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