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> 日本的という意味を一言で尽せば「木版式石版が日本の特色となって、今日も尚連綿としてそれを改めない」茲に木版式というのは平面的であって、淡薄であるという意味にもなる。これが日本石版術の特徴である。
> 多年木版と日本画をもって養われて来た我日本人の頭脳は、遺伝的にもやはり淡薄を好み平面を好む筈である。近時多少共、濃厚立体的趣味を理解してきたとは言え、やはり依然として古来の習慣は脱け切らぬものがある。これが国民性だと論じるならば、私は黙認する。而して長年月を経るうちには何とか変化する性質のものであるかもわからない。それはとにかく、今日迄事実となって現れた所に拠ると、日本の石版は外国とは違った特色を備えて発達してきたというより他に仕方がない。

(「浮世絵の知識」織田一磨, 1930)

「国民性」とかはアレだとしても、百年近く経っても傾向が変わらなかった(と自分は思っているんだけど)のはなんでだろうな…。

国民性うんぬんというか、美的な規範が伝統の中でしか成立しなくて、それはやっぱり明治から変わらずずっとひきずっている

↑これについて、版画って色の数だけ版木があるのだけど、よく考えてみたらこれはアニメのセル画と同じ技術的制約で、水野年方の版画のたとえばこういう人物の影の表現が、「んー、なんか不思議なよさを感じるけどなんだっけな...」っておもってたんだけど、これはまさに技術的制約がアニメと木版画で共通していて、それが表現のリソースとして利用されているんだよなっておもった。
水野年方「三十六佳撰」より。人物の肌に影がつくられているが、グラデーションではなく、影の色の版木によって摺られている。

ヨーロッパ絵画は伝統的に明暗法による単色グラデーションで影をつくってきたし、銅版も石版も写真もこの伝統に沿ってきたけど、日本で発達した木版画はそもそもグラデーションを作ることが難しく、多色摺りの方向に発達した。セル画という形で、ほぼ似たような技術制約をもった表現が発達したのが、偶然なのか選択だったのかはわからない。

読んでたら悲しくなってしまった…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E7%94%BB

>日本国内のアニメ業界では、1990年代後半以降、デジタル彩色の導入が業界規模で進行した。その一方でセル画製作の技術を持つ人材の減少・高齢化が急速に進行し、並行して業務用セルの流通が減少したことで業界各社はセル画による制作の継続に不安を持ち、さらにデジタル彩色の普及が加速度的に進む結果になったが、その中でも2000年代初頭の一時期にかけては、セル画の技術しか持たずデジタル彩色の技術習得の機会にも恵まれない中堅・ベテラン世代のフリーランスの彩色スタッフが一気に淘汰される結果にもなり、無事に業界に残った者の中にも、デジタル彩色の導入がテレビアニメほど急激に進まなかったアダルトアニメの制作に携わることで、デジタル彩色の技術を習得するまでギリギリ食い繋ぐなどといった状況が見られた。

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こういう、3Dモデルなんだけど2Dっぽく見せるのってめちゃくちゃ転倒しているんだけど(つまりこれは技術的制約からくる表現ではない)、こういうのはどう考えればいいんだろうな...。ぜんぜんメディウムスペシフィックではないことをしている。
https://www.pixivision.net/ja/a/3122