昨日のこのイベントを聞きにいったのだけど、いぬせな氏と自分の感想はめちゃくちゃズレているな。
https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1675830999794741249?s=20
https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1675830999794741249?s=20
「技術の発達」と呼ばれる歴史的事象、技術が自動で発達するわけではないのに「技術が発達する」と見えてしまうことに罠があるようにおもう。技術の発達と呼ばれる事象は、ほとんどの場合には投資の結果で、自律した技術の発達史があるわけではないとおもう。どこか金儲けできるポイントにむかって技術投資と市場の形成が行われ、ある技術的な形成物とセットになっていた社会がまるごと過去になる、という形で「技術の発達」と見える現象が成立しているようにおもわれる。
ある技術的な環境を受け入れている立場から見ると、過去の技術的環境から現在の技術的環境への変化は、必然性をもったものに感じられるであろう。人間はだいたい現在を合理化したがるものなので、たぶんそういう必然性を発明するのだろうとおもう。というか、それは新しい技術を販売するためのマーケティングでもある。
たとえば、今自分はメモはパソコンでとっていて、紙と鉛筆みたいなセットではやらない。紙+鉛筆からパソコンへの移行は、逆行しえないと感じる。この逆行しえなさの説明は、技術の発達という物語によって語られる。だが、実際には自分のデスクの周辺から紙や鉛筆を追い払った環境ができあがったからにすぎないかもしれない。そしてたぶん実際にある環境を構築している人にとっては、パソコンでのメモなど非効率そのものだろう。
- replies
- 1
- announces
- 3
- likes
- 4
自分をとりまく技術的環境というものは「変わる」としか言いようがないものだけど(そのように言うことはなんの理由の説明にもなっていないのだが)、この変化を指して「技術の発達」という進歩史観を指し込むのは、技術を売りたいがわの売り文句とそれを需要するがわが、その売り文句をまるごと飲み込むことで成立する歴史だろう。
で、この「技術の発達」という物語が受け入れられることで、その技術は「インフラ」と呼ばれることになる。ある技術が「発達する」と受け取られるということはその変化に必然性があると感じるということとおそらく関わっていて、その必然性は、当の技術を「変更不可能」だと感じさせることになる。いまスマホがなくなったらどうなるだろうか。それに「想像できない」と答えるなら、スマホはインフラである。すくなくともその人はそう感じている。
そして、このような形での技術のインフラ化は、投下資本の移動によって変化したわけだから、自分のコントロール下にないものである。実際には過去にはおおむねその代替機能で満足していたわけだから、無くてもよかったはずなのだが、社会のほうがまるごと変わってしまうと事実上なしでは済まなくなる。実際にいま自分はパソコンなしに仕事ができない。このような形で、インフラ化した技術を、自己の外部として受けいれることになるのではないかとおもう。
そして、このような形での技術のインフラ化は、投下資本の移動によって変化したわけだから、自分のコントロール下にないものである。実際には過去にはおおむねその代替機能で満足していたわけだから、無くてもよかったはずなのだが、社会のほうがまるごと変わってしまうと事実上なしでは済まなくなる。実際にいま自分はパソコンなしに仕事ができない。このような形で、インフラ化した技術を、自己の外部として受けいれることになるのではないかとおもう。
いぬせな山本氏が、「ここ百数十年ほど版という形で表現を反復させ、表現そのものの基盤たりうる共同性を成立させつつ機能していた参照先=必然性=権威がいまや崩壊し、AIはじめ技術的発展も伴いながら表現が高速化/低価格化/自動化したりもした結果」と書くとき、やはりここには一種の技術決定論が響いていると感じる。この技術決定論は、自分が上記したような意味での「インフラ化した技術」が、われわれの生を条件づけているように感じられていることを物語っているようにおもう。
上述したような技術のインフラ化って、身体的なものとしてあったワザみたいな領域にあるものを、外在的な技術に変換していく過程でもあるよな。ただ、それが技術の発達した結果自動的に起きるという記述が誤りなだけで。
先頭のツイートで山本さんが「版」という言葉を使っているのは、昨日のイベントで七里圭さんが使った言葉。映画が気付けば「映画のようなもの」になっているという違和感を言語化しようとアレコレしてきたが、デジタル化でおおきかったのはフィルムという物質がなくなったことだと。写真の発明というのは(光学装置としてはずっとカメラ・オブスクラの原理が知られていたわけだから)、平面に塗った感光剤に像を定着させるということが発明だった。この技術の展開はリトグラフの発明と連続性がある。19cから20cにかけての映画を支えたのは、このフィルムという物理的な転写装置で、そこにリアリティを感じていたのが、現代のデジタル化された映像になってみるとこういう物質的支えを失ってしまった、ということを指して「映画のようなもの」と言っていたとおもう。
@tenjuu99 いま書いている単著1章のテーマです。説明が難しいのだけど、技術のインフラ化、つまり技術決定論で語れるのは映画までで、とくに1990s以降(ポストや転回以後)はデバイスがノードと化し、その技術的な意味合いが環境によって決定されていく、というのが自身の考えです。
@tenjuu99 メディア考古学者もなぜか装置を構成する物理的支持体に注目するんですよね。版からの技術的発達史といえばグーテンベルグの銀河系を思い出しますが。デジタル化で見失われるのは、リトグラフやフィルムの物質性が確保していたリアリティよりも、映画と映画館の関係性です。要するにデジタルな視聴覚情報は、デバイスを問わず流通するので、映画を映画館(視聴覚のみを拡張する環境)でみる必然性が見失われてしまう。映画館を等閑視して映画が映像コンテンツ=「映画的なもの」として語りうる地平を準備してしまうのが、デジタル化というわけです。
@gon_gitsune ごんぎつねさんの議論は、ある時期以降、技術的環境が構築され(=インフラ化)、もろももの技術的な発明はその技術的環境(インフラ)のなかで意味を持つ、という論かなと受けとりました。
自分の論点としては、「技術のインフラ化」という「語り」そのものが、技術と身体の切り離し操作をおこない、「主体にとってコントロール不可能な外部である」という宣言になっており、ある技術をインフラとして再配置する言説によって、その技術の「必要性」が喚起されてしまう、というようなことが議論の対象で、この「必要性」によって技術の変化が決定論的に見える、つまり、ある技術的存在が必然的なものに見えてしまう。
自分の考えるところでは、技術決定論(技術こそが社会や人間の思考を決定するという考え)は、まず上述したような操作によって、ある技術的存在が「必要欠くべからざるもの=インフラ化」と認知されるようになり、そうして過去の技術から現在の技術に向かって「必然的に発達」をしていると考えられるようになることを基盤にしています。なぜなら、このような語りによってはじめて、技術が自律的に進歩すると見做すことを許容するもので、人間を排除した技術の進化を語ることが可能になるからです。
技術の自律的進歩という観念を前提にすることによってはじめて、「技術こそ人間/社会を変容するものだ(技術決定論)」という語りが成立することになるものとおもいます。
技術が変化しないなら、技術による人間の変容(技術決定論)を語ることはできないから、それを語ることができるための言説上の基盤は「技術の進歩」という概念になると考えます。「技術の進歩」という概念が、上述のような意味で、言説上での「技術のインフラ化」操作による自律性の獲得によって成立するものであろうと。
自分の論点としては、「技術のインフラ化」という「語り」そのものが、技術と身体の切り離し操作をおこない、「主体にとってコントロール不可能な外部である」という宣言になっており、ある技術をインフラとして再配置する言説によって、その技術の「必要性」が喚起されてしまう、というようなことが議論の対象で、この「必要性」によって技術の変化が決定論的に見える、つまり、ある技術的存在が必然的なものに見えてしまう。
自分の考えるところでは、技術決定論(技術こそが社会や人間の思考を決定するという考え)は、まず上述したような操作によって、ある技術的存在が「必要欠くべからざるもの=インフラ化」と認知されるようになり、そうして過去の技術から現在の技術に向かって「必然的に発達」をしていると考えられるようになることを基盤にしています。なぜなら、このような語りによってはじめて、技術が自律的に進歩すると見做すことを許容するもので、人間を排除した技術の進化を語ることが可能になるからです。
技術の自律的進歩という観念を前提にすることによってはじめて、「技術こそ人間/社会を変容するものだ(技術決定論)」という語りが成立することになるものとおもいます。
技術が変化しないなら、技術による人間の変容(技術決定論)を語ることはできないから、それを語ることができるための言説上の基盤は「技術の進歩」という概念になると考えます。「技術の進歩」という概念が、上述のような意味で、言説上での「技術のインフラ化」操作による自律性の獲得によって成立するものであろうと。
@tenjuu99
ていねいな返答をありがとうございます!身体や文化と切り離された技術概念と、その単線的な進歩というイメージの発明をひもとくには、ハイデガー等の技術哲学を読まないといけないですね。スティグレールが『技術と時間』で、まさに「技術のインフラ化」について語っています。
いずれにしろ、技術の自律的進歩を論じるのは限界がきていると思います。メディア論=技術論でもありますから、根深い問題です。
ごんぎつねの議論の補足です🦊
①80-90年代以前
技術のインフラ化→技術が環境を制御する
②80-90年代以後
インフラの技術化→環境が技術を制御する
①と②では、技術あるいはデバイスの意味合いが異なり、従来の技術決定論では、①は論じられても②は論じられないということです。