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セカイ系、たぶん小林秀雄の私小説論に基礎を掘り下げることができる。小林の主張は、欧米の「私」は社会化されているが日本の「私」は社会化されていない、というもの。
ドストエフスキーが「欧米」かはわからないが、彼の小説にしても、ある場所で多様な人間が出会いぶつかり合うなかで「私」を配置しており、そのぶつかり合う場のことを小林が言う「社会」だと考えればいい。ドストエフスキーについていえば、そういう社会のなかで「私」の固有性は常に揺らいでいるわけだ。日本の私小説で「私」はそういう場に出会わないというのが小林の主張で、最近読みなおしてみたときに「あっそれはセカイ系じゃん」ておもったのでした。

このへんはたぶん柄谷の日本近代文学の起源とかと重ねて考えることができるはずだけど、まだちゃんと読みなおせていない。
ついでにいえば、大正期に起こった吉田博らの新版画では近景の扱いが変化するのだけど、それは主観的な眼差しが誘われつつ、その風景から疎外されるようなものとして形成される。遠近法的な視覚の発達だと言えなくはないけど、問題は作図の発達にあるのではなく観念の変化にあって、自分の見解では、新版画は世界から遊離したものとしての自我の表現になっている。
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この意味で、吉田博が山に登って山から見た風景を描いたのは象徴的で、山とは人間社会が無い世界のことであり、自己を疎外すると同時に誘惑するものでもある。

北斎にせよ広重にせよ、彼らが描く風景はつねに人間臭さがあって、言ってしまえば人間社会の延長に自然を配していたのだけど、吉田博描く自然には北斎や広重が描いた人間くささはなく、全く街の延長ではない。人間は身体的には自然の一部であり、その身体を包むものとしての風景があり、一方で、絵を見る観客としての「私」は、その風景に包まれつつ疎外される。なぜなら私の身体はいまここにあって山にあるわけではないのだから。北斎や広重の絵にはこのような疎外感がない。