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永井氏のツイートのこのあたり、ニーチェが「善い」と「好い」を分けたときの「好い」を基礎に置いていて(直接的価値とはそういう議論だったとおもう)、善を相対化するんだけど、やっぱり独我論者らしく、人間は相互作用的な存在だということは捨象してしまう。人間が社会的存在であるとする立場と独我論的立場では、「善」と「好」の評価が真逆になってしまう。とか、そういうことを思った。
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1780395047571411298

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この引用元の谷口氏が

「ホントはダメなんだけど、いいよね」じゃなくて、「ホントはいいんだけど、ダメなんだよね」が正しい

と言っているのは、ずいぶん昔の子供のための哲学とかあたりの永井の著作にあらわれた結論だったはずで、いま考えると、この「ホント」を措定して通俗道徳を仮象として扱う議論は、ニーチェよりはデカルトから来ているように思う。

「ホントはいいんだけど」という言い方、『地下室の手記』のクレオパトラは暇だったから従者に針を指したという話を思い出すんだけど、ドストエフスキーはそういう独我論的な世界観の主張をさせつつ、後半ではそういう地下室の主人公が実際の社会でどう惨めな存在であるかまで描くんだよね。独我論もポリフォニックな声の一つとして扱ってしまう。でも、永井氏はポリフォニックな見方は決してしないとおもう。

「地下室の手記」も「罪と罰」も、過剰な近代的自我の持ち主の主人公が出会う「他者」は売春婦で、主人公が彼女たちより慘めであることを自覚する瞬間がある