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「悪」の団体を燃やす
––Colabo に対するハラスメントにはたらくネットワーク・ミソジニーの論理
https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2024/03/106_7.pdf
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いくつかひっかかるところはあるけど、おおむねおもしろかった。

トランプの大統領当選を機に書かれたBanet-Weiserの著作が、いくつかの分析枠組を提供している。

  1. ポピュラー・フェミニズムの台頭(有名性がある=ポピュラーだが政治的・社会的な変革には繋がらなかったフェミニズム運動)
  2. 1に対応する形で、反動的な言説を「ポピュラー・ミソジニー」とする
  3. ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニーの闘争は、オンラインでのアテンションの獲得を求めるものである。このアテンションは政治・経済的な原動力となる

みたいなのが、おそらく元の Banet-Weiser の本におけるトランプ現象の分析枠組みになるのかな?

Banet-Weiser の著作について、本論考の著者はつぎのように整理する。

本著作の目的は、ポピュラー・ミソジニーが単なる言説から政治的な動員へとどのように進化し、いかにして父権制度を(再)確立するのかを明らかにすることにもあった。Banet-Weiser は、このプロセスの重要な要素として「ネットワーク化」を指摘する。ここでいう「ネットワーク化」とは、一見強いつながりのない集団や個人が互いに関連している際に、フェミニズムを共通の敵とみなしてハラスメントや誹謗中傷を連帯の手段とすることだと述べた(Banet-Weiser 2018, 118)。

次のような指摘は興味深い。

ポピュラー・ミソジニーの信奉者の主たる立場は、フェミニズムを社会の限られた公共資源を独占し、現在の男性の社会地位を揺るがし、現行の政治および文化の安定を脅すものと位置付ける(Banet-Weiser 2018, 5)。

ようするに、フェミニズムが公共的な資源を専有しているかのように見えているから、その対応物として、ポピュラー・ミソジニー的現象が発生する。

「ネットワーク・ミソジニー」という概念は、おそらく Banet-Weiser の著作ではなく、本論考の概念のようだが、「反フェミニズム」というだけで、他には共通性のない集団が同時に「フェミニズム的」な集団を攻撃する、という現象を指している。論考で扱われるのは、暇空茜と煉獄コロアキで、これらはColaboへの攻撃としても相互に独立の活動であり、組織的な攻撃ではない。
複数の独立した主体が、ターゲットから「資源」を奪うよう動く。暇空茜も、煉獄コロアキも、Colaboを攻撃することによってアテンションを獲得し、それを資源として経済活動にまでしている。これははっきりいえば「ポピュラー・フェミニズム」の側もおなじで、アテンションを資源としてその社会的地位を獲得している側面があり、それゆえアテンションの奪い合いという様相になる(ちなみに本論考にも述べられているが、Colaboの活動にとってアテンションを獲得することは重要ではない)。

このあたりの理解の仕方は、話題になっていた北村・雁琳裁判において指摘された「訴訟ビジネス」というものと共通の問題。というかおそらくこの文脈を踏まえてのことなんだろうとおもう。

自分がこの論考をみつけたのはこのツイートで、まあこれの引用RTを見ると悪意しかなく、まさに論考の分析対象となるようなものではある。引用RTが49、RTが422あるけど、何人が論考を読んだんだろう...。嘲笑されるような内容の論考とは読めない。
https://twitter.com/otakulawyer/status/1780472366591881615