pleroma.tenjuu.net

いま「文化盗用」と呼ばれている事象、文化的背景を知らずに表面的に拝借することなども含まれてしまう気がするけど、文化的な意味がスポイルされることが問題であって appropriate されることが問題なのではない気はする。
寿司がカリフォルニアロールになっても何もスポイルされない。

サイードが述べるオリエンタリズムやクリフォードが言う人類学や美術史学による appropriation はなにかしら組織だった活動として把握されているもので、英語圏で Cultural appropriation がどのような概念として把握されているのかわからないけど、サイードやクリフォード的にはやっぱり制度的な我有化について扱う必要があるんじゃないかとおもう。制度の境界が難しすぎるけど...。
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ラスタファリ信仰とか、キリスト教を転用した信仰形態だけど、これもキリスト教のcultural appropriationといえるもので、じゃあここに倫理的問題があるのかというと、一部の人にとっては問題だろうけど、そんなに問題があるわけがない。
そうすると、この概念だけだと言えることが少ないわけだから、植民地主義という背景を持たせないと意味をもたない概念で、cultural appropriationは植民地主義における統治の技術である、とまで言う必要がある。

@tenjuu99@pleroma.tenjuu.net 食べ物はあまり問題にならなくて、ファッションが問題になりやすいのは、ファッションのほうがアンビバレントになりやすいからだと思う。エキゾチックに描かれると、異なるものに対する好奇心・魅力と、規範からの逸脱による不快・蔑視の両方の印象を受けるから、後者の側面により不利益を被る可能性があり不適切だという議論が出てくるのだと思う。ただこの「蔑視されないようにしてあげよう」というのが自分たちの文化(西洋的「市民」社会の文化)の中での評価を絶対視する意識が感じられ、私は偽善的印象を受ける。私はそのような「かわいそう」アプローチよりも、自分とは異なる文化に対する評価が常に変化に対して開かれている(ように市民を教育すること)が大事だと思う。(商業的には「かわいそうなことをしている」と思われないようにするのは大事なことなのかもしれない)

このような「文化盗用」がそもそも問題として焦点化されるのは、アメリカの民族多元主義的(グローバル)市民社会という理想のもとで、参画する個人(の文化的出自)がリスペクトされる環境を作るべきという発想が大元にあるように思う。

またそれとは別に、民族的、ネイション的アイデンティティに関連する事物が市場のもとでコモディティとして「平等」に扱われることで、拡散し陳腐化することを恐れるという発想があるのだと思う。財産的側面については地域商標などで表し得る権利への侵害ということなのだと思う。