松田政男読んだけど、松田の語る「風景」は、映画(メディア)によって産出される風景なのか、都市化による均質化された風景なのかがあいまいなところがネックだとおもう。両方重要だけど。中平が松田の議論をひきとって、メディアによって産出される「風景」の批判をしているのはかなり重要で、 provoke のアレブレボケみたいなスタイルがディスカバージャパンに流用されたことも含め、メディア論的な問題として理解・批判していくのが筋ではないかとおもう。
あとは柄谷行人の「風景の発見」での、制度化された文学によって主体が確立されると同時に「風景」が確立されたという議論も、なんかアクロバティックな操作をしたら接続できそうな気はする。
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柄谷のばあいは、主体の確立が風景を産出していると論じるけど、松田は逆に生産された風景に疎外される主体(永山則夫など)を論じている。これは単純に社会運動的な背景の後退を読むことはできるけど、柄谷が意図的だとすると、柄谷は社会運動の基礎をどこに置くつもりなのさというのは思う。