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ハイデガーの「適所性」、ハンマーは釘を板に打ちつけるためにある、釘は板を固定するためにある、板は暴風から守るためにあるといった形でものの存在理由の連関の「了解」としてある。人間は行為時にそういった了解のなかを動きまわっているということだけど、なんかそんなにキレイにピタっと「適所」を得るようにはできていないとはおもう。
釘を打つということにも細かい位置の模索があり、いくつもの失敗に取り囲まれている。ある地点で釘を打つのではないような板の固定の仕方を思いついたとしたら、「了解」は破られていることになる。

行為を取り囲む環境が、きれいに構造化されているかのように語っているように思える。こういう疑問は昔は抱かなかったけど。

というか、ハイデガーが語る「適所性」を打ち立てる活動として制作があり、「制作」とその他諸活動は異なるのだろうか、どうだろう。そういう話はハイデガーがどこかでしてそうではある。

ハイデガーが行為の説明について適所を得させることとして説明するのは、哲学というものが常に行為に対して遅れてでてくる二次的な活動だからでもある。
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行為理由の行き止まりに対して隠れた自己了解を見出そうとする議論も、意義はありつつ、筋が良くない議論に見えてしまうな。そのような自己了解があらゆる行為につきまとうかというと、ぜんぜんそんなことはない。
つまるところ、環境を道具として立て、それを操作する実存を非道具として立て、それらについてそれぞれ「なぜ」を問うから、道具存在は「なぜ」に対する回答を持つように見えるが、実存のほうは「なぜ」にたいする回答がないように見える。だが、このような形で「なぜ」という問いが現れる場が哲学以外にあるのだろうか。

言葉を変えて言えば、ハイデガーにとって世界とは組み立て可能なものとしてあるのではなく、組み立てられたものとしてあり、その組み立てられたものにたいして「なぜ」という問いを発している。近代科学は「なぜ」の問いを棄てたというが、じつはこのハイデガーの問いと裏腹の関係にあるように思われ、つまりそれは組み立てられたものが「どのようにして」と問うのが近代科学だったということができないだろうか。
そのように言いかえてみれば、現代の科学や哲学が近代のそれと決定的に異なるのは、まさにこれから組み立てるものとして世界を見ているからではないか。そのなかでは、哲学も科学も事象に対する遅延としてあるのではなく、それをもって物事を組み立てていくための仮説や判断規準としてあり、組み立てられたものに対して「後から」説明をするようなものとしてではなく、物事の「先に」ある。
アラン・ケイの「世界を知るためには、それを自ら構築しなければならない」というパヴェーゼの引用などは、そういう態度を典型的に示している(し、彼は近代の科学と現代の科学を決定的に異なるものしている)。