pleroma.tenjuu.net

今日(昨日)有給つかって鎌倉に行ってきた(親が来ていて連れていった)。鶴岡八幡宮だの建長寺だの円覚寺だの行ってきて、これはもう街ごと博物館だ、すごいすごいとなってパシャパシャ写真を撮った(スマホで)。建長寺の三門はとくに良かった。
建長寺三門正面から。一階部分は、4x3で柱がグリッド状にならんでおり、壁がなくどこからでも入ることができる。 建長寺三門斜め後ろから。 建長寺三門裏から。

建長寺の奥の方丈はぐるりと縁側を回ることができ、裏には庭がある。この庭と向き合った縁側にベンチがあり、これは庭を見るためのものだろうが、ここで老人が二人弁当を開けて食べていたのでかなりびっくりした。当然弁当なんか売っているわけもないし持ち込んだものだろう。こんなことしていたら方丈も立ち入り禁止になってもおかしくないと思う一方、この博物館のような巨大な寺院の敷地は7割くらいは立ち入り禁止区域で、そこではふつうに宗教活動などが行われている。たぶん、その巨大な図体を維持するのに自ら観光地化していったのだろうという気もする。

そんなことを思っていたところ、たまたま同日にこういうツイートを見かけた。いちおう全文引用しておく。

お寺の「博物館」化は美術的視点が仏像に導入されて以降、著しいものがあり、お寺自体もそちらに迎合した事実があります。しかし、そっちに振り切ってお寺に来られ、諸仏に手を合わすこともなく、無遠慮にシャッターを切る姿を見ると暗澹たる思いがします。せめて、慎しみがあって良いと思うんですよ。 https://twitter.com/o_nuk_i/status/1728233683600224627

岡倉天心は、法隆寺夢殿を開扉したときのことを以下のように書いている。

余は明治十七年頃、フェノロサ及び加納鉄斎と共に、寺僧に面してその開扉を請ふた。寺僧の曰く、これを開ければ必ず雷鳴があらう。明治初年、神仏混交の喧しかつた時、一度開いた所忽ちにして一転掻き曇り、雷鳴が轟いたので、衆は大いに怖れ、事半ばにして罷めたと。前例が斯くの如く顕著であるからとて、容易に聴き容れなかつたが、雷のことは我々が引受けようと言つて、堂扉を開き始めたので、寺僧はみな怖れて遁げ去つた。(岡倉覚三『日本美術史』)

これは「日本美術史」が立ち上がる神話そのものだが、同時に信仰も駆逐され寺社が博物館になる決定的な瞬間だろう。これについて亀井勝一郎は「発掘の情熱の陰には「文明開化」の無作法もひそんでいる」と述べている。

ある場所において「見るに値するもの」を作りだしているのは美術史そのものなのだから、美術史の発明とは観光客を発明することに等しいとすら思う。

美術史的な価値を創造することは、ある客体を観光資源化することになるし、自分が鎌倉の仏像と向き合う姿勢も資源として見ている。観光地で写真を撮るというのはそういうことではある。
replies
0
announces
4
likes
6