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大正期日本画に眼が馴れてきて、画家たちがどういうことを試みているのか、ようやく理解できるようになってきたな。いままで馬鹿馬鹿しいとおもってきたようなものも、あらためて見ると、ほうなるほどみたいになる。
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たとえば、清方の「ためさるる日」(大正7年)とか馬鹿らしいとおもっていたんだけど、これとか「なるほど」となったやつ。
これは島原遊廓における踏み絵がモチーフだけど、左隻の花魁(太夫)の厭そうな顔と、右隻のもはや醒めきった顔が描かれている。文字通りにはそれでいいんだけど、そもそも、ここで目指されているのは、そういった歴史画的なものだったり描かれる花魁(太夫)の心理描写だったりではなく(いやそれはあるんだけど)、「花魁」という浮世絵表象をいかに解体するかなのだ。こんな不安な表情をした花魁が浮世絵で描かれることはありえなかった。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/25269

もうすこし文脈を補足する。
清方の「ためさるる日」は大正7年だけど、大正3年に東京大正博覧会がおこなわれている。このとき、博覧会の便乗企画として吉原で花魁道中の復興がおこなわれる。ここで花魁道中をやらされた花魁の白縫が翌年人権侵害を訴えて自主廃業している。娼婦と蔑まれながら、たんなる好奇の眼にさらされる「再現された花魁道中」が苦痛でなかったはずはない。
大正になって、すでに終わってしまった花魁道中を復元しようとすることは、博覧会に来るであろう外国人観光客にむけてのジャポニズム的な文脈もあるわけだけど、江戸期浮世絵の表象をニッポンだとして生身の身体を抑圧することが大正期の雰囲気としてあったと言える。

そういう前提を置いて、「ためさるる日」を見ると、「浮世絵」というイメージそのものを攪乱することが清方の目標になっていると理解される。花魁の白縫が花魁道中を強制されたのは、江戸期浮世絵表象にまつわるセルフオリエンタリズムに起因するが、清方の絵は「浮世絵」というイメージそのものを揺さぶろうとしている。清方がセルフオリエンタリズムを批判したとか言いたいわけではない、そんなパースペクティブが彼にあったはずがない。そうではなく、浮世絵というイメージの固定性が問題だったのだ。

たぶん清方の絵がこのような解釈をされた試しはないはずで、それは大吉原展のキュレーションを見ればわかる。