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関くんのシアスター・ゲイツ展評、なんかやたら長いな。あとで読むか。
https://bijutsutecho.com/magazine/review/29787

@tenjuu99 ほんとだよね……。註あわせて1万字。こんなの誰が読むんだという。

もうちょっと立論が立体的であってほしかったという感想だった。というか、3をもっと掘り下げてほしい。
「柳や民藝は植民地主義的だ」という批判を前提に、シアスター・ゲイツはそれに無自覚すぎるという批判はしばしば見たもので、それにたいして異文化衝突に際してハイブリッド文化が生じるのが現実だ、では結論として弱すぎる。そのハイブリディティが植民地主義的な混血なんじゃないのか?つまりアメリカ人として「植民地としての日本」の「民藝」をいわば文化盗用的に流用しているのではないか?というのは当然あらわれる疑問で、その場合シアスター・ゲイツは柳の植民地主義的身ぶりを無自覚に再演していることになる。
この場合、評価する必要があるのは、柳および民藝はどれくらい「ハイブリッド」なのか、またそのハイブリディティのなかに植民地主義という背景がどれだけ関与しているのかということと、シアスター・ゲイツの同様の問題に対する差異だろう。今回の展示がどれだけ「民藝」的であり、「民藝」的でないかが示されるべきで、そういう操作を通さないと彼の「民藝」概念を換骨奪胎しての流用が、どういうものなのか評価できないとおもう。

柳宗悦とシアスター・ゲイツの共通するところを探れば、「宗主国の立場から、被支配地の文化を評価する」というのがある(と批判する側は感じている)けど、柳との差異はシアスター・ゲイツがアメリカ国内では黒人という被差別的な属性にある。展示で民藝の年表と黒人の年表を並列していたのは、柳的な立場を無自覚に反復するためではなく、この立場の二重性を明示するためにあったはずで、そこに「アフロ民藝」という無茶苦茶なコンセプトの意義があるはずだ。
ゲイツは搾取的な構造にはかなり自覚的で、たぶん現に民藝に関わっている当事者になにかしらの利益(経済的とは限らない)があるようにしている。で、こういう関係(経済的強者が経済的弱者を「救済する」という関係になる)が「植民地主義的」かどうかはまあまあ重要な問いだろう。

「救済」の物語は『文化の窮状』でクリフォードによって批判されていたものでもある。
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柳宗悦はまさに「救済」の物語を語ったし、クリフォードによって批判されたMOMAのプリミティヴィズム展も「救済」を語った。「近代化した側」が「前近代的なものの価値を評価する」というのが救済の物語だった(これが美術館的な「保存」の欲望にむすびついている、クリフォードの批判では民族誌も似た機能をもつ)。
シアスター・ゲイツが「救済」するのはあきらかにこういうものではないし、じつは柳の朝鮮陶磁器の評価から「民藝」運動への移行には、当初は当事者不在の美術品評価だったのが、当事者をまきこんだ運動に変質していく過程があるんじゃないかと考えているので、クリフォードが批判する「救済」の型に一致していないとおもう。

自分が「シアスター・ゲイツは柳の植民地主義をあまり理解していないまま引用している、それも植民地主義的な身ぶりの反復だ」みたいな見解に違和感があったのは、ゲイツは実際に当事者たちと関わって、経済的互恵関係まで構築しているからで、柳らの民藝運動にしてもこういう性格があるけど、表象レベルでの批判にしか見えないからなんだよな。
「経済的互恵関係の構築こそ植民地主義の常套手段だ」っていう強硬な見解なら、まあわからんではないけど(いやわからないが)。わからないというのは、資本主義は地方経済の構造的な破壊をつうじて経済的植民地を構築するわけだから、ゲイツや民藝がやっている経済的互恵関係の構築をつうじて当事者の活力を作り出す運動は、基本的に資本主義に抵抗するものではある(と自分は考えている)。

@tenjuu99 天重さん、ちゃんと読んでくれてありがとう!! ごもっともな指摘。3はぼく自身納得いってなくて、当初はもっと別の道筋を考えていたんですけどねえ(そうすると、1万5千字くらいになりそうだったので、まあ、しょうがない)。ここで書こうと思ったけど、あまり天重さんが書いてくれたことと変わらないし、言い訳がましいのでやめときます。どこかで話しましょう。

@tenjuu99 ただ、天重さんと違うのは、ぼくはゲイツの実践は資本主義そのものだとみているところですね。ゲイツ自身地域が白人化しても構わないとさえ思っていると言ってますけど、ゲイツの都市開発プロジェクトがジェントリフィケーションとして批判されるのもわかる。

@seki_takanao シアスター・ゲイツの活動がジェントリフィケーションだと批判されているというのは、黒人住人の追い出しがあるということ?

@tenjuu99 ああ、実際に追い出しがあるというよりは危惧があるという批判ですね。あと、ある研究者(名前忘れた)が、「アートとジェントリフィケーション)」という論文のなかで、ジェントリフィケーションと絡めて、ゲイツのアプローチ、とくに政治的・社会的エリートとのつながりを問題視しているんだけど、いわく、ゲイツのリビルド・ファウンデーションは美術界や企業のためのの一種の便宜的なマネーロンダリング施設として機能しているんだ、と。リビルド・ファウンデーションを中心にした資金援助のネットワークが迷路のように複雑に入り組んでいることを考えると、この批判はわりと妥当かなと思う。

@seki_takanao その論点がどういうものかはちょっと判断できないけど、マネーロンダリングとジェントリフィケーションを統合的視点から批判するのは理解できなくはないけど、現象としては別のものなのでは。ジェントリフィケーションの問題って、基本的には、荒れた土地などの再開発を通じて地価の上昇があり、その地価上昇にしたがって貧困層が排除されていくという仕組みで、シアスター・ゲイツの活動によって黒人が排除されるようになればそれはかなり問題なんだけど(黒人の名において黒人を排除していくことになるわけだから)、そのへんはまあまあ丁寧に考えているように思うんだよね。

@seki_takanao 関くんの書きかたから推察するに、マネロンの主体はアートに資金を流す資本で、それがシアスター・ゲイツというキャラクターを通じて錬金術的な操作をしているということだろうけど、自分はそのなかでシアスター・ゲイツが主体性を持って活動していないと思わない。つまり、そのマネーロンダリング的な構造への加担をしているというより、それを利用して方向を作ろうとしているように見える。まあそれが踊らされているだけだという批判は可能だけども。

@tenjuu99 うん、ゲイツ自身は黒人を追い出さずに地域を再生させる方法を慎重に考えているんだと思う。ただ、将来的に土地の値段が上がって黒人貧困層が住めなくなることは十分にありえると思うんだよね。実際にいまどうなっているかはわかんないんだけど。

@tenjuu99 いや、わかるよ、ぼくもテクストのなかでアナグストを引用しつつ同じようなことを書いたけど。
でも一方で、美術界や資本家はゲイツを利用してある種のマネロンを行っているわけだから、結果的にゲイツはそれに加担しているという批判はありえると思うんですよね。つまりゲイツの実践は、資本主義が前提にあって、制度に寄生的なのですよ。そこをどうとらえるか。

@tenjuu99 美術界や資本家はゲイツを使ってある種の慈善活動(マネロン)を行う一方、他方でゲイツは白人資本に寄生するかたちで、黒人コミュニティに実際に利益をもたらしている(白人資本家のリソースを流用することによって、富の再配分を実現させる)わけですけど、そういう制度依存的なところをどうとらえるか、ということですね。それがぼく的には一番おもしろくもあり、資本主義そのものだと思う点でもある。

@seki_takanao そのへん自分はジェームズ・クリフォードの「流用(appropriation)」とか思いだすけどね。

ある意味で博物館におけるデコロナイズの議論と並行する話で、博物館というものは植民地主義的な活動の一翼を担ってきたわけだけど(「遅れた」文化は「博物」として人間以下の扱いを与えられた)、その博物館をエスニックマイノリティグループが再流用するという動きがある(あった)。こういうのを、ジェームズ・クリフォードは逆側からの流用として肯定的に評価している。支配者たちの制度のなかでは「モノ」でしかなかった存在が主体として振る舞って主体的に制度を再解釈する。自分はゲイツの活動をこの話とおなじように理解していて、制度依存的であっても制度と一体的ではなく、黒人であるということそのものを抵抗の証としているとおもう。
被支配者の側が既存制度を再流用するのは、まさにハイブリッド性があらわれる場所でもある。メアリー・プラットのコンタクトゾーンとかはアンデスの先住民がスペイン語で書いた文章を分析しているけど、黒人としてのシアスター・ゲイツが西洋美術の文脈を引用するのとか、「アンデス先住民がスペイン語を使って文章を書く」のと類似の構造だとおもうんだよね。

こういうのは人類学(というかクリフォード以降の批判的人類学)で扱われていて興味を持っているけど、まだ読んでなかったら、『文化の窮状』を読んでほしいな(第三章だけでも)。メアリー・プラットの Contact Zone とかも。
https://en.wikipedia.org/wiki/Contact_zone

@tenjuu99 『文化の窮状』は読んではいたけど、そのへんの議論はたしかにもっと抑えておけばよかったな……。
うーん、植民地主義への抵抗にはなりえても、一方で資本主義への抵抗になりえているかというと、やはりぼくは懐疑的なんですよねえ。ゲイツは資本の流れを変えているわけですけど、一方で資本主義そのものにはメスを入れない。ここたぶん、ぼくのダメな新左翼的なマインドというか、遅れてきた世代感が出ちゃっていると思うんだけど。

@seki_takanao 新左翼っぽいっていったらそうかもね笑
自分とかがわりと制度にべったり生きているもので...そのへんの温度感の違いはあるかもしれない

@tenjuu99 ぼくは革命というとかなり恥ずかしいけど、アヴァンギャルドの夢が捨てきれないんですよ笑。
とはいえ、ここ最近のソーシャリー・エンゲイジド・アートのなかでは一番ゲイツがおもしろいと思ってる。SEAにせよコミュニティ・アートにせよ多くの場合、美術館やギャラリー、あるいは芸術祭といった美術制度の内部で、刹那的な社会変革を試みるのに対して、ゲイツは自身のブラック・アーティストとしての社会関係資本を最大限活用することによって、富の再配分(制度的再編成)を実現させると同時に、都市開発プロジェクトの持続可能性をきちんと担保しているわけですからね。やっていることは、不動産デベロッパーとほとんど変わらないし、政治的実行力に対してかなり自覚的に取り組んでいる作家であることは間違いない。