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SNS含めて外に出された言葉と、内面的な言葉(というものがあるとして)が一致するという前提で書いているのは作家っぽいといえばそうだけど、作家ってどっちかといえば社会に出す言葉はペルソナとして言い切っているような気はする。「文学的言語」なるものがあるというのも、言語環境に対するパフォーマンスとしてありうる。そんなものが先んじてあるわけではないけど、そのような「文学的言語」を仮設してしまえば、それなりの効果は発揮できる。

つーかSNSの大規模化はまさにこうした文化人のペルソナをぶち壊してきたといえるか。仮設された「文学的言語」なるものも、もはやインターネットミームとして消化されるよりほかない糞味噌環境のなかで、あえて現存の回路に回収されないような言語で語ることはできるのか。

もうそういう意味では内面の自由みたいなテーゼじたいが古すぎる気はする。明治〜大正期の文学でそれが重要な主題であったことは疑いようがないけれど。
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内面を語るための言語がかつて重要だったのは、検閲との距離においてだよね。権力は言語の統制をつうじて精神の内部にまで介入する。いまもそういう問題はないわけではないけど、言語をとりまく環境はあきらかに変化している。