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「ものの促しがある」アフォーダンスでは

とりさんのサルトルの話を聞いています
https://www.youtube.com/watch?v=VfsqedlOfxw

絶対的出来事、おもしろそうな概念だとおもったけど、事物性と分けられる事実としての出来事の存在って、世界では否応なく他者(人とは限らない)と出会っていて、そういう出会いの偶然性の無意味さ、みたいなものかな。べつに人が人と出会うというだけでなく、人がモノと出会うこと、モノがモノと出会うこともあり、出来事はそういうモノどうしの相互作用によって「出来事」である、とか。
モノの存在が欲望とか意識とかの対象として在り、自己のなかで自閉しているとすれば、出来事は世界のなかで起きており否応なく自閉的世界を壊している。とか、そういう意味で「無意味」なものとして立ち上がるのか?
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メルロー=ポンティが、このプールの水は出掛けていってあそこの木に訪れている、みたいなことを言っているとき(水の反射のきらめきが糸杉に反映している、ということを言おうとしている)、それって水と木の出会いみたいなものが言われているとおもうのだけど、この場合モノ同士の出会い方はかなり詩的な出会い方をしているし、たぶんメルロー=ポンティはそう捉えていたんだろうとおもう。世界はモノどうしが出会う場であるとして、それがいい感じに出会ってしまうのがメルロー=ポンティだとしたら、サルトルはおなじことについて、自閉性が壊されるような他者の出現にイライラしていたのか?みたいなことが気になりました。そういう理解をしていっていいのかもよくわかっていないけど。

プールの話、『眼と精神』です

メルロー=ポンティ、世界との出会い方のモデルとして芸術家を考えていて、それと対比するようにデカルト哲学をいわば世界との出会い損ねとして考えているけど、世界のなかでの他者との出会い方みたいなことをそれぞれ考えていたんだろうか