pleroma.tenjuu.net

「リトルボーイ」の図録に松井みどりの論考があり、けっこうおもしろかったのだが、松井は村上隆とマイクロポップ的な流れをポスコロとフェミニズムで読んでいる。これはけっこう重要な話だなとおもうけど、日本のフェミニズム系の論者で村上隆を論じている人はだれかいるかな。

村上と比べれば椹木はあきらかに日本人を対象にした日本美術の見せ方を検討していたので、椹木にはセルフオリエンタリズムという契機が欠けている。椹木の文章で良いものはいつも彼自身の想起を伴う反省的な文章で、そういう反省性は村上にはない。村上はみずからが表象になることを選んでいて、思考する主体であることを見せようとしない。それがセルフオリエンタリズムということだろう。椹木は内省する。「平成美術」という仮構は、彼の内省的な空間に観者を引き入れる仕掛けだ。すくなくとも、自分はそういう対比はあるとおもう。ここに松井みどり(マイクロポップ)を加えるとどうなるか関心はある。

そういう流れを踏まえても、このレビューはあきらかにナイーブすぎる。おそらくこれまでフェミニズム系批評の蓄積が欠如しているためにこうなっているのではないだろうかという気がする。
https://globe.asahi.com/article/14419015
replies
1
announces
0
likes
0

椹木の歴史観がかかえる閉塞感は社会構造的なものというより時代的なものであるのはまちがいないとおもう。それは、自分の印象では、宮崎駿のファンタジーのもつ外部性の欠如と似ている。

椹木が「うたかたと瓦礫」というほとんど神話的な語りをしているのは意味があるというか、そういう神話こそ批判的に読解されるべきだとおもう。まあ椹木はむかしから神話ばかり語っているけど。