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映画が「映画のようなもの」になっているというぼんやりした違和感。それはデジタル化に関わっていると思う。というところから。

文語定型詩から口語自由詩になったときに、「散文は詩ではないではないか」という議論が起きた。それに対して萩原朔太郎が散文詩の擁護として、形式的な定型とリズムを区別する理屈を立てた。

北原白秋が、短歌っぽい韻律の詩を書いたら短歌界隈の連中に短歌として批評されてムカついた、という話。改行によって成立する詩を、改行なしでスラッシュで表現され、短歌として扱われた。

短歌か近代詩かって話、エクリチュールかどうかだよなぁ

田村隆一「腐刻画」
二連詩。
連と連の空白、断絶によって、「彼」から「私」に視点が転換する。その断絶を隠喩として利用している。

コンクリートポエトリー
新国誠一、「川または州」に面の意識が明確にあらわれている。

ChatGPTの話するらしいけどそこまで行けるのかな

「デザインの種」戸田ツトム、鈴木一誌

「レイアウトの法則」佐々木正人、鈴木一誌
書物は、物体としての側面、レイアウトとしての側面、テクストとしての側面がある。

レイアウトとしての書物が意識されているとき、書物の物質的な厚みは忘れられる。テキストとして意識されるとき、レイアウトの平面性は忘れられる。
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本は、これまで光を反射する物体だったが、電子書籍になってみると、面そのものが発光している。

コンピュータスクリーンのようにテキストだけが配置される場でなくなったときに、改めてテキストが配置される場とはなにかという問い・実験が行われている

中尾太一「夜明けのアーミン」
引用されたときに、意図しないところで改行されると詩の組成が変わる、という意味で引用しづらい。

和合亮一「ぼ某月某日」
一行中の文字数の強調

最果タヒ
もともとネット上でasciiアートのようなテキストを発表していた。印刷物にしたときの改行の恣意性。

原稿用紙で、改行して段を下げるときはたんに横に配置すればよかったけど、キーボードを使うようになると、改行した上でスペース連打する必要が出てきた。空間的な作業だったものがリテラルに時間的になっている。

映画作家が、どんな映画作ってるんですか?って聞かれたときyoutubeのリンクを渡したりするけど、youtuberとどう違うんだろうと内省することがある

まあ、作品と作品のあいだに明確な空隙があって、作品という単位として自立するのって一時期の概念だよなと思う。

カニエ・ナハ「馬引く男」
改ページ手前から詩がはじまる

山田亮太「オバマ・グーグル」
「オバマ」でググったときに出てくる言葉で構成している

吉増剛造「怪物君」
見開きページ単位で詩を作っている

吉増剛造x空間現代x七里圭「背」について

最近考えていたこととの接点での感想
https://twitter.com/tenjuu99/status/1647275740591951873