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技術による知覚の拡張という話、いろいろ慎重に考える必要があるようにおもわれる。たとえば、眼鏡とかを考えてみると、眼鏡は視覚を拡張するものではなくて、規範化された視覚というものがあり、社会がその規範性をベースに構築されているから、眼鏡によって適応する。つまり「新しい視覚」を獲得するために眼鏡をしているわけではなく、「あるべき視覚」にたいして現在の身体が欠如しているから、それを補うために眼鏡をする、ということになっていて、知覚の拡張どころではない。おなじような話はコンピュータにもあるはずだとおもう。

自動車の運転免許には視力の要件があり、裸眼ではなく眼鏡をかけて免許更新する人は多いとおもうけど、視覚が規範化されている典型的な例ですよね。一定の規範的な身体をベースに、社会のほうが構築されている。

技術というものが更新するのは、こういう規範性なんだろう。写真はまるで自然そのもののようなものとして現れてきたが、それがつくりだしたのも「ものはこのように見えるはずである」という視覚の規範で、その規範性が理解できない文化の人には異質なものと映っていたはずだ。ある文化が写真を受け入れるというのは、写真的な表現における規範性を受け入れるということだ。
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