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南米の労働者が万感の思いをもってボブ・マーリーを聴くことと、日本の脳科学者がボブ・マーリーを聴いてほんものとか教養とかいうことの間に、経験の共通性はあるんだろうか

芸術的な経験のもたらすリアリティって社会的に形成されますよね

日本の脳科学者にとってはモーツァルトもビートルズもボブ・マーリーも同じように「ほんもの」で教養だけど、ジャマイカの人にとってボブ・マーリーこそが「ほんもの」で、ほかはリアリティに圧倒的な濃度の違いがある(「ジャマイカの人」とか十把一絡げに言えないけど)

自分は、モーツァルト、ビートルズ、ボブ・マーリーが並んで平気らしいことに一番ギョッとしたけど、こういうのこそがスーパーフラットな感性ではないかとおもう。村上隆的にはスーパーフラットは過剰な消費文化のなかでいろんなものの価値が等価に見えることだと思うけど、モーツァルト、ビートルズ、ボブ・マーリーという並びは消費文化というか、iPod的なものであるように思う。
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iPod じゃない iTunes だった

@tenjuu99@pleroma.tenjuu.net そもそも言論自体が正しいか正しくないかではなく、コンテンツとして成立するかどうかになっている。YouTubeに地獄のように増殖するずんだもん解説動画と変わらない。あんまりまともに取り合っても仕方がないと思う。

それはそうと、系譜のつながらない音楽に通史的な要素を発見していくということは価値があると思う。この3人は、単にYouTubeのサムネイル的なコンテンツ適性により選ばれたものだろうが、芸術的に選べば、一定の半径で強力な神話として通用するイマジネーションを作ることができると思う。