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うーん、芸を身につけているかいないかにかかわらず、当時の遊女がどのような主体性をもってどう生きたのか?という点がちょっと物足りない気がする。
「構造的に遊女にさせられた」っていうのはそれはそうなんだけど、であるから当時の遊女たちには主体性がいっさいなかった、とは言えないというか。「当時の彼女たちの自主的は判断で遊女になったのだ」とか言いたいわけではまったくなく、「主体性が奪われた」存在として表象しつづけるのがいいのか?ということに疑問がある。
https://note.com/yuukaku/n/n59ea8cd1e0b7

江戸期の遊女が「主体性を奪われた」存在だったのは間違いないんだけど(「商品」だったわけだから)、だからといっても、誇りを持って生きていた人もいるだろうし、抵抗した人もいるだろう(遊女から妓楼への訴訟がある)。こういうのは(訴訟も含めて)「文化」なんだとおもうんだけど、問題なのは、「吉原の文化」というときにブルジョワ男性の視点からの記述が中心になっていることではないか、と思っている。
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