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下層社会に生まれ育った一人の大衆が<流浪>という存在態においてしか自らの階級形成をとげざるをえなかった時、したがって私たちが永山則夫の足跡を線でつなぐことによってもう一つの日本列島を幻視しようと試みたとき、意外というべきか、線分の両端にあるところの点として、風景と呼ぶほかはない共通の因子をも発見することとなったのである。そしてこれは、この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、都市も田舎も、一連の巨大都市としての劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均一な風景であった。私たちスタッフ6人は、1969年の後半、文字通り、風景のみを撮りまくった。撮っては喋り、喋ってはラッシュを見、そして再び風景を撮った。作家と観客と批評家の回路が私たちの内部にできあがり、モーターが唸り、私たちが確かに私たちのまぼろしの日本地図をこの列島の上にあぶり出した時、映画が完成した。それは一種異様なる<風景映画>であった。(松田政男)

https://pop1280.hatenablog.com/entry/20060715/1153053357

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均一化した風景がなんでもないものとして目に映る、それは権力の作用によるものだという風景論、新聞や雑誌、書籍販売ネットワークによって国内の言語が均一化していくことと無関係ではありえない。