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やっぱりこれもやもやするな。

作品の内部に批評的な射程があり、批評家はそれを取り出すだけということになると、批評家の批評眼はどこにあることになるのか?というのが一点。

それと、廃棄される大量の作品群があって、そのなかからとくに岡崎さんや宇佐美さんの作品を選択するのが「作品に批評的/理論的な可能性があるから」ということになっているのが、恣意的な選択でないはずはないのだけど、その恣意性が客観的であるかのように語られるというのが、もう一点。恣意性がわるいわけでもないし党派的であってもいいんだけど、その恣意性が隠されてしまっている。

批評は、みずからの恣意的な判断を公共的なものとして主張することだとおもうから、それ自体政治的な活動だと言っていいけど、そこは曖昧にされていると感じる。

今回の場合だと、岡崎作品が主張するように、ある場所を「誰の所有でもない場所」として主張するというのは、それを強制的に成立させるような仕掛けがあったかというと結局なかったという結論になるとおもうんだけど(だからこそ撤去を左右できる権力による恣意的な判断がある)、高島屋という資本とのネゴでしか「誰の場所でもない場所」が成立しないということが矛盾していて、たぶんおおっぴらにそれを言っている人がいない気がする。そういうネゴシエーションにたいして作品内在的な可能性の開示することで「理解」してもらおうというのは啓蒙主義的すぎるのではないだろうか。

https://gendai.media/articles/-/113608?imp=0
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住民が実効支配するということ以外、成功する見込みがないとおもうんだけど、美術業界と高島屋で動いているように見えることに問題がある。実際に住民運動が起きたかどうかということが、この沢山さんの記事にも一言もないわけだし。

高島屋の権力によって「公共性」が成立しているなんてマヌケそのものなわけじゃないですか。権力主体のたんなる許可によってこの作品が残存することになったというのは、そもそも敗北なんじゃないんですかとおもうけど、そのようには総括されない。自分には、この一件は美術業界がパトロネージ的世界にいるというようにしか見えない。

では、公共性というのをどう考えるべきかというのが総括されるべき話で、自分の考えるところだけ言えば(理論的根拠などはない)、いくつかの権力の主体(暴力の主体かもしれない)が実際にネゴシエーションしながら開いていく場がそうなんじゃないのか。今回の場合だと高島屋(土地所有者)と美術批評家連盟などの業界になるんだとおもうけど、その過程がだいぶ不透明だという印象があるし、この過程に住民が参加しているのかとか、そのへんが重要なんだとおもうけど、「作品に芸術的な価値があるから残すべき」っていうのは、あってもいい意見の一つとはいえ、あまりに内向きの理屈じゃないかとおもう。