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『眼の神殿』あたりの「近代化」のイメージ、いま思うと「西洋化」にひきずられすぎているとおもうんだけど、再読したい。高橋由一が風景を描いて主観・客観図式が導入されているとするのは、単純過ぎるんだけど、そう主張している箇所があるんだよなたしか。

このへんは大塚英志もけっこうそういう史観をつくりがちで、西洋文化の輸入=近代化という図式をつくりがちで、このへんは訂正する必要があると思うんだけど、こういう批判的検討はどのくらい明示的になされているのかわからんな。
木下直之の『美術という見世物』はそういう意味では、輸入された諸概念が在来の習慣のなかに違和感なく受容される様を丁寧に追っていて、「近代化」のイメージがそう言われるほど非連続的なものではないことを示している。

近代化が非連続的なものだとイメージされる史観、西洋的なものが日本において地盤をもたないものとして椹木野衣に変奏されているし、もっと古い事例でいえば近代の超克もそうだとおもう。

明治以降の「近代化」のナラティブが、戦前と戦後で実は共通するように思うんだけど(というか実はこのナラティブは無傷のまま修正されて戦後にひきつがれているんじゃないか)、このへんの論考書いている人いないかな...。美術だとおもいあたらないのだけど。

なんでこんなことが気になっているかというと、スピヴァクを読みつつ、その参考として丸山美佳の「アンラーンの可能性をめぐって」(群像2021年4月号)を読んで、スピヴァクの言う「アンラーン」も内面化された近代を忘れることであってみれば、ポストコロニアル/デコロニアル系の理論が南米で発達していたり、いわゆる第三世界で「近代化」のナラティブへの批判的な検討がポストコロニアル理論の背景にあるけど(サイードもこの系譜に入れていいかもしれない)、日本で直球で「近代化」のナラティブを批判的に検討しているのはあまり見ない気がする。というか美術業界では『眼の神殿』が1989年で、これが日本におけるポストコロニアル的反応(?)だとすれば、「近代化」についてかなり肯定的なナラティブを語っていることになる。
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北澤の由一の風景画が遠近法的視覚を成立させているという議論に対する疑問・反論は、けっこう素朴に可能で、トンネルの外から見ている風景について「見る者を疎外するような景観」と述べているのだが、由一は同じトンネルをその内側からも描いている。この一例を見ても、北澤は結論ありきで由一の絵について論じているとおもう。これがまさに「近代化」のナラティブ。
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