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美術における様式という概念、すっかり古びて不要になったものとおもっていたけど、さまざまな文化事象における style の統一こそが様式という概念の意味するところだったわけで、これ現代では各企業がブランドデザインの名においてやろうとしていることそのものだな。

(ゴシックとかバロックとか、そいういうのは建築やら彫刻やら文学やらの各表現媒体を横断して表明される特徴的な様式 style があるとされる)
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いやこの古びた概念を復活させたいなんてことではないんだけども、むしろ、現在の企業がやっていることから省みると、19世紀末から20世紀初頭にかけて様式論が発達するのは、そのとき「様式」概念で捉えようとしていたのが国家の様式とか民族の様式とかだったわけで、当時は国家や民族とは、(ある意味では現代の企業のように)ブランディングしていくべきものと捉えられていたわけだ。

20c初頭に、ドイツでデザインの議論が発達するのは、第一次大戦前夜にドイツが植民地を拡大して販路開拓しようとしていたからだけど、そこで「ドイツ的な様式」が求められていた。ドイツというのは一個の企業のようなものとして了解されていたわけだ。それにたいする反発こそがバウハウスだったとおもうが。

こういう暴論を掘り下げてみたい気持ちはある

杉本俊太氏は「様式」から「造形」に問題が変化したと論じるけど、そうではない。様式という問題はあきらかに残存していて、デザイン言語とかの領域で具体的な実践になっている。
様式の担い手が国家とか民族とかだと思われていたが、「ゲルマン的本性」みたいな話になると、それはもうデザインの問題ではない。デザインとは構築されたものなのだから、ゲルマン的本性がデザインされてしまうとそれは人工物だということになる(人工物だが)。
「様式」というものが、徹頭徹尾人工物なのだという了解がなければ、それはデザインの対象にならない。コーポレートアイデンティティとかは人工物と見なされても誰も悩まなかったが(企業の人口性なんて誰でもわかるし)、国家が人工物だってバレてしまうと国家は困ってしまう。「民族」も同じように人工物のくせに人工物ではないと振る舞わなければならない概念だ。