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ベンヤミンのアウラ、人が繰り返しの効かない事象のなかに生きて感じている繰り返しのきかなさについて知覚されているもので、複製技術が変えるのは人間の知覚の様態ですね。「繰り返しが効く」ことが当たり前になれば、物事の本来的な一回性が知覚できなくなるというか。

複製技術時代にアウラが消失するのは、複製技術によって一回性の認知が麻痺しちゃうとそうなる
アーレントは仕事のうえに行為の領域があったと思うけど、繰り返しの効かない英雄的な行為を称えるみたいな領域で、ここがアーレントにとって芸術だった気がする。
ベンヤミンと繋げると、逆のことを言ってそうというか、アーレントはギリシャの演劇をモデルに芸術の観念を組み立てているから「行為を称賛」することになるけど、ベンヤミンのアウラは時代についての認識で、議論の目的としては映画とか複製技術が資本に支配されているからダメなんでそれを民衆が支配し直せば革命的に再利用できる、みたいな議論だから、少なくともギリシャ的な芸術観は退けている。複製技術時代におけるありうべき革命的な芸術についての議論。
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沢山遼さんのカール・アンドレを論じた「レイバーワーク」ちょっと思い出しているけど、たしかちょうど同じような問題でアーレントを批判的に使っていた気がする。アンドレとかミニマルアート系のダンスとかが普段の労働の所作を再利用・再演している、みたいな話してたけど、どんなだったっけな。

すごく適当なことを言うと、芸術云々を抜きにして、複製技術時代においては日常の中に一回性を麻痺させる装置群がたくさんあり、人間の感性を摩耗させる。それが例えば時計とか時計に合わせた学校とか労働とかで、毎日そういうのを繰り返すと一回性がなくなるように感じられること請け合いなのでアウラは消失する。
アーレントは繰り返しで成立する労働の領域を私的な領域に囲い込んで下げているのは、たぶん英雄的な行為の推奨にしかならない気がして、たしかに問題ある。
人間の感性を回復するにはどうすればいいかみたいな課題になるのかな。

複製技術の革命的な利用ってまさにそういう課題を述べているのか